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「暴力になった言葉」は言葉として認めたくない

あきらかに「それってどうなの?!」なものに対してですらも、単なる意見や思想等々の食い違いなら、なるべく「ケンカ」みたいにならないようにしたほうがいいと私は考える。
なので、発する言葉がそもそも「ケンカ腰」みたいにならないように、自分でも気をつけるようにしている。――繰り返しになるが、「それってあんまりではないですか?」というものに対する抗議でさえも、である。(でも自分、これ、時々できていないですね、申し訳ないです。)

敵視せず、好戦的にならず。(少なくとも表面上は。もちろん内面もそうならないようにできるならしたいけれど。)
だって、その「相手」は必ず「他人」なのであるからして。
考え方は、違って当然。だって「自分」ではない別の人なのだから。――「正しい」と思い込むものも、違って当然。――誰だって「正しさ」については、どこか「信じて」しまうし、信じないとその人にとっての「正しさ」が「正しさ」なのに揺れまくってしまうだろうし、そうなってしまうからこそ、各々がそれを信じて「疑いたくはない」わけだし。

自分の中にだって、「思い込み」「とらわれ」「勘違い」それらが絶対ないなんて言い切れない。
フリーハンドで正円や正方形を書ける生身の人間がそうそういないように。――そんなふうに、それぞれが、自らの手書きの、少しずつではあってもやはりどこかは歪んでいる「生身の認知」を、皆で持ちよりながら、この人間世界に通じ合う価値観などは、そもそも構成されているのだし。


例えば、SNS上で、政治的な意見を戦わす方々の(もちろんそれ自体はいいことだし、むしろ今もっとやったほうがいいことだと私は思いますが!)、「語気の荒さ」が気になって、私は仕方がない。(自分と同意見の方々に対しても、正直気になる。)何というか、言葉がどんどん攻撃的、暴力的になっていっていて、――そうなると、傍で聞いている方々が、「いや~、あの論壇の中には加わりたくないな~。」「なんだか怖いし面倒くさそうだから、外野で見ているほうが気楽でいいよね~。」ってなるのは、当然なのかもしれないぞ?と、このたび私はふと思ったのだ。

私にも、(最近は特に!!!)政治的意見はいろいろある。
でも、例えば、このnoteなんかでは、具体的には話しにくかったりする。――正直、この神経図太い私ですら、「もし何か知らん人から食って掛かられて執拗に攻撃とかされたらどうしよう」とか怖く感じる、というわけだ。

政治的なことだと、人の命とか、生活とか、人生とか、そういうものも関わってくるから、その批判の語気が荒くなるのは仕方がないっちゃあ仕方ない、とは思うのだ。……思うのだが。
それでも。
私達はもう「大人」なのだから。
一言で言えば、「暴力に暴力で返す」みたいなことは、言葉でだって、やめていくようにしたいんだよなあ。少なくとも「やめるようにしよう」という気持ちは持たないといけないと思う。
私は個人的に「暴力になった言葉」は、内容にかかわらずその時点でもう、言葉と認めたくない。(自分でもたまに行ってしまうクセに、手前勝手なのは重々承知ですが。)

「怒り」を伝えることは、本当に大事なことだと思う。
但し、「怒りを伝える」というのと、「怒りで殴り返す」というのは、違うということだ。

「暴力」に巻き込まれたい人はいないし、だから「暴力」では、本当の味方は増やせないのではないだろうか。――というか、「暴力的なものを含む」やり方で私は「暴力的な味方」を増やしたくはない。それをし出すと、「暴力的な物言いをどこかで嗜好している自分」に、――つまり「それでどこか気持ちよくなってしまっている自分」に、自分の場合はそのうちなってしまいそうだからだ。



「公人」である政治家が、何かおかしなことをすれば、やはり「批判」はする。それは必要なことだと思う。

で、その政治家の行動に、あまりにも反省がない場合は、その批判内容も、更に厳しいものにしていかざるをえないだろう。

例えば、自分でも悪いことだと実は認識していながら、それを公然と続けてみたり、嘘を並べて居直り続けたり、バレてもすっとぼけてシラを切り続けたり、その政治家の罪に加担させられた人が罪悪感から自ら命を絶っていたり、強姦された一人の女性の訴えを力で踏み消したり(…ってもう、枚挙にいとまがない。)
そんな人間が国民の税金から(中には今、生活がギリギリの方だって多いだろう)搾り取ったお金で高い給料とってふんぞり返ってニヤニヤ笑っていたら、そりゃあ、はらわた煮えくりかえります。
そうです、怒るのは当然なのです。

それでも。

ぶん殴りたい、便所のスリッパで後頭部をはたきたい、っていうような、
拳をぎゅうっと握り締めるような、
――でも、それでも、そんな気持ちを抑えて。

「言葉を暴力にはしますまい。」
と、私は誓いたいのである。

(「暴力」と化した言葉を言葉とは認めないという前提に立ち、)
言葉というものの、その聖域を、(もしそれがあると仮定したなら、)
私は、侵したくないし、侵されたくもまたないから、である。


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おまけの追記:
自分で書いたものを読み直していて、かつて自分にもそういえば、(まだ「この後の世の中」に危機感なんかを感じていなかった若い頃――だから「大昔」になりますが、笑)政治的なものや政治家に対して、それはもう政党問わず、どこか距離を置きたいような、「しらけた」気持ちで「冷ややかな」目線を送っていた時期があったということを思い出しました。

「耳に入れたい言葉」と、「耳に入れたくない言葉」とは、確実にあって。
やはりそれはもう言っているその「内容以前」の話で、感覚的に、上の方から、土足でズカズカ入り込んでくるような「風情」「気配」(だからやはり「内容以前」なんですね)のものからはどこか本能的に逃げ出したくなるような、――当時の自分はそんな感じだったと思います。

何らかの政治的意見を持たない(あるいはそんなに強く持ってない)人が、例えば、政治関連のSNS上で繰り広げられる「舌戦」を見た時に、どう感じるかな?という視点。――いや、話している内容を、(内容も大事だけど)まず、「伝わるようにするには」つまり「耳を傾けてもらうには」どうすればいい?という視点を先にもってくる事は、別に政治とか選挙戦とかそういうことに限らず、自分の事に置き換えてみても、日常的に考える価値はあることですよね。