見出し画像

「人の顔色を窺い過ぎてしまう自分」がかつていた

勤務時間中にほんの少しのあいだ手を止めていただけですぐ「サボっていると周囲に思われるのではないか?」とか。
人とのやり取りの最中にちょっと相手の反応が鈍かっただけですぐ「今何か自分が気を悪くするようなことをやったかな?」とか。
あとは、「邪魔しないようにしなきゃ」とか、「不快を与えないようにしなきゃ」とか、そういった類のことが「常に」。


――まあ、もちろん。
「鈍感」なのは良いこととは言えないし、「気遣い」もまた大事なことではある……のだけれども。
「それにしたっていくら何でも」と今なら感じられるくらいに、他人様に対して少々「過敏」になっている自分が、かつて居た気がするのだ。
何も悪いことはしていないのに、――少なくともそこに「悪意」は絶対ないのに、――スミマセンスミマセンと「うしろめたい」気持ちが、「既に」というか「常に」というか、つきまとっている感じとでもいえばいいのか。

それは「人に気を使い過ぎる」や「人見知り」すらも通り越して、どこか、言うなれば軽めの「対人恐怖」「被害妄想」みたいなものだったかもしれない。(あくまで「ごく軽いもの」でしたから、日常生活に支障が出るというような感じでは全くなかったですけどね。)(そしてでもそれらは、歳をとってきて、つまり長い年月をかけて、ずいぶん我ながら改善されてきた。――言い換えると正反対の方向へと、もう最近では「図太く」「無神経」と言えるくらいまでになってきたように思います。笑)

それで。
「かつての自分」はどうしてこうなったのだろう?と、それなりに歳をとってからだが、心当たりを探ったりしたことがあった。
「持って生まれた性格」というもの以外で探すとするなら。――今のところの結論としては、「やはりここらへんって、幼少期に受けた親からの影響が一番大きい気はするんだよなあ。」と、そこへ行きついた。

うちの、特に父親は、一言で言えば「厳格」で「短気」という感じであった。(基本的には「陽気」な人ですが。)まあまあ「厳しい」、で、怒らせると「かなり恐い」(例えば怒った時の声は相当大きい、とか)、ごく偶にではあるが、(主に幼少期まででしたが、)𠮟責時に手を上げられることもあった。(でもそれはその時何回も執拗にという感じではなく、いつも一回きりの、でも幼い子供相手に大の大人の力任せで「バコン!」という感じだった。また、自分の場合はいつか、父の怒りの「そこまで」の沸点に達する前までで、つまり「手が出る」ほどの手前までで、要領よく「逃げる」「避ける」「かわす」術も身に着けた気もするので、小学校の中学年以降は殴られるまではなくなったとは思う。――が、「相当な大声で怒鳴られる」程度は高校生くらいまではよくあった気もしますけどね、基本的に「瞬間湯沸かし器」な人だったのでね。笑)
(しかし、ここであえて更なる余談をはさむが、親だろうが教師だろうが何の立場だろうが、教育という名のもとにおいてだとしても、つまりいかなる状況や理由があろうとも、私は「暴力」は一切認めない考え方です。成人後、かなり歳をとってからですが、その私の考えについては一度だけ、父親には伝えたことがありました。「親だろうが暴力は許さない考え方です。」と。)
(但し、父をかばうつもりは毛頭ありませんが、当時はそういう「叱る時に手が出る」親って今よりたくさんいたと思うし、つまりどこか「世間的に見慣れた当たり前の光景」になっていた気もするし、更にさかのぼって考えてみると、父も時代的に「そういうふうに」育てられてきたのだろうなあ、と想像できるところはあります。……閑話休題。)

「人の顔色を窺い過ぎてしまう」という、かつての私の性格(繰り返しますが、今の私は結構変わったと思います。笑)は、ここもまた一つの起因だったのではないかなあ、というのが、私の今のところの見立てではある。(もちろん「そこがすべて」ではなく、生まれつきの自分の性格との掛け合わせとか、その他諸々の要素が絡み合ってとか、いろいろあるとは思いますが。)

で。
今自分は学習塾講師の仕事をしているのだが、この「かつての自分」に、やや似ているかなあ、と思えるタイプの生徒って、ちょくちょくいるのである。(とはいえ、あくまで「傾向」というか、「性格の方向性」が「近い」というだけですが。)(そしてその子が、どの場所の、あるいは何に、影響を受けてそうなっているのかまでは、もちろんまったく想像し得ません。家族以外にも、学校もあれば、友達関係も、その他諸々大きく影響を与えるものはいくらでもあり得るわけだし。)(また、「大雑把に分けると似ている」というだけであり、基本、当たり前ですが、どの生徒も個々それぞれバラバラで違います。笑)
で、その「かつての自分に似ているタイプ」ってだいたい、一様に「良い子」である。――あえて個人的にあまり好きではない言い方を使ってしまうと「扱いやすい」ことが多い。
例えば、指示には素直に従い、その指示されたものを一生懸命やってくれる。――指導している側としては、とってもやりやすい。「余計な注意」とかしなくていいし、学習計画も立てやすく、「聞く耳」を持ってくれているからこちらから良いやり方へと導いてもいきやすい。また、こちらが一生懸命やった分の本人からの「良い」反応(リアクションといえばいいのか、但しこれは「結果」とは違う)が確実に返ってくるところも、やりがいをこちらもストレートにシンプルに即時に感じさせてもらえて、そこもとってもありがたい。(もちろん、「かつての自分」の傾向と似ていなくて、でも上記のようなタイプの子もいますが。)
ただ、――気になるのが、そこに「絶えず何者かに急かされているような」空気を感じるというか、――そう、「急いでいる」のではなく「急かされている」感じ。(私は相手が誰であろうと人を急かすのがとりわけ好きではないので、急かすようなことはしていないと思うのだが。)
そういえば、「かつての自分」も何故か、誰も自分を急かしてなどいないのに、人目がある場所では、やけに常に「急かされ」「焦っている」ような気分が、背後あたりのどこかにあったような気がする。――「マイペースなんて悪!」と、常に誰かにそばで耳打ちされているかのような。

そして、そういう子達については、「言われるがまま」という雰囲気もまた、感じてしまうことが多いのだ。――そこから更に先までもう少しだけ深読みしてしまえば、どこか「自分の心はとりあえず置き忘れてやってます」(そう「とりあえず」なのに「置き忘れた」というニュアンスです。)とか、「ここに私の本当の心のほうは入っていません。」とか、そういう言外のメッセージが、一挙手一投足に感じられてしまうというか。(――というこれは、私個人の「思い込み」も、多分に入ってしまっているかもしれないが。)
で、そういう子というのは、成績について、「努力の割には」結果が出ないなあ、と感じられることもまた、多い気もしていて。(つまり、「これだけ真面目にやっているのなら、もっと成績上がっても良い気がするのだけどなあ?」と感じるということです。)
機械的に誰かがプログラムしたような、つまり命令されたかのような、そんな「作業」は得意だけど。漢字練習、計算練習、……等々。なので、全般的に「処理」は早い、が、その先にある「応用問題」とか「考えて書きなさい」とかになると、思った程には力を発揮して来ない、ということが多い印象である。もちろん、今どきの(特に定期試験対策を主目的とした)勉強って、結局は「暗記量」がものを言うから、(数学ですらも。何故なら「この問題はこの解法パターン」というのが暗記できているから、時間内にパパっと解けるようになる、ということが試験対策の勉強の基本だから。それはやはり、それらの「一種の暗記」の積み重ねが、「即効性がある」「手っ取り早い」というのは根底にあると思う。)この「作業=勉強」形式は、ある一定程度のそれなりの効果はあげるのだけど。――いや、でも暗記こそ、単なる「作業」感覚では、「大量のそういった記憶を蓄積させる」ような「受験生」という事態になると、限界がすぐ来てしまうというか、なかなか効果的には進めていけない気もまたする。明確に、「他人の為ではなく自分のものである」その「目的」を、「自分がこれから立ち向かうことのために憶えよう」と自分で意識し、自分なりの自分用のプログラムを頭の中で絶えず組んでいかないと、なかなか記憶は、指示されただけの右から左の言うなれば「作業」では、大量に系統立てては定着していかないと思う。
――という、勉強の話になぞらえるのは、これくらいまでとして。
そもそもそれはまた、持って生まれた性格のタイプにそれぞれあった、様々な「作戦」が存在していいものだとも思うので。(「性格」まで、良かれと思ってだとしても他人が「矯正」しようという発想もまた、私は好きではないので。)


話を「本線」に戻そうと思う。

他人の顔色を窺いやすい人間。――「一致団結」「規律を乱さない」という意味では、これほど理想的に「仕込まれた人材」は、いないだろうなあ、とも思う。
で、自分自身が基本「仕込まれた人材」として生きてきた人間ならば、他人
にも(その相手を「自分の下」と捉えてしまっている場合には特に)つい「人材であること」をどこかで求めてしまうだろうともまた思う。
「かつての私」は、こうして、親と、親世代と、その方々が作り上げた世間とから、「対人過敏」な、「使いやすい良い人材」になるようにと、育てられてきたのだ、――というと大袈裟だけと、でも、そんな気も、今になって少々している。――でもまあ、「自分たちが良かれと思って信じ込んでいる」その通りに、次の世代たる子たちもそのまんまなぞってくれたらなら、それは「良いことにきまっているんだから!」という共通認識にいつか「される」のは、ある種のお決まりコースという気もしないでもない。

但し、この「喜んで『人材』になります!」という感じ(で、そうさせる周囲の人々とか「世間」の醸し出す空気とか)を、あるいは私自身が全否定できないというところもまたあったりはするのだが。――何故なら、私だってこの社会・世間の「歯車」の一つと「ならせていただいている」ことで、ありがたく享受しているものはたくさんあると思うからだ。
が、しかし。
それもまた、「行き過ぎる」と、どうなんだろうなあ??という問いが、ここ最近沸々と湧き出してきている、と、こういうわけなのである。
それは言うなれば、皆が皆、聞き訳のある、物分かりの良い、そういう「人材」状態で、大丈夫なの?という個人的感想である。
主観で述べてしまえば、そういった「人材型」とは逆の「型破りデストロイヤー型」は、(昨今はとりわけ彼らには肩身の狭い生きにくい世の中になっていってもいる気もするので、)昔より極端に少なくなっていっているように感じられるのである。――もう少しだけ、主観の、でも「観察結果」を足してしまえば、今の世の中は、人のタイプが大きく「偏ってきている」(更にこの先「偏っていく」?)ように私は思えるのだが。――いかがだろうか?

例えば、この世の中がずーっといつまでも変化しないものだったなら、誰もが「人材型」でも、――つまり「型通り」「プログラム通り」「規則正しく」というのでも、――有効かと思うのだが。
でも実際の世の中ははそうではない。「世の中(のある部分)は、否が応でも変わってもいくもの」である。
ならば、「誰かにプログラムを書き換えてもらうのを待つ」そんな人材型ばかりがやけに多いのでは、大丈夫かなあ、という気もする。「聞き訳があって」「物分かりが良い」とは、そういう「とにかくはみ出さない」「指示待ち」方向に、どうしても落ち着きがちではないだろうか。
――まあ、「型破り」で「和を乱す」の「壊し屋」タイプばっかりでも、社会としてはまた困るのだろうけれども。(笑)
つまり、要はバランスなのだと思うのだ。
なので、大部分の人が、「自分という人間」というものを一回消去してしまって「人材」に徹するみたいなのを良しとし、結果それを「基本設定」にするのは、それこそ、「社会」という「全体」にとってすらも、長い目で見ると「悪影響」が出るのではないかなあ、という気もまた私はするのだが。

……。

――という、「あくまで自論」を、滔々と述べたところでまあ、「他人様と世間様のことは結局私なんかには解り得ない」という点にいつも帰結するので、自分のことのみに論点を戻すと。

人の顔色を窺い過ぎることなく、人というものを恐れすぎることなく、「空気」みたいな目に見えないものに対して遠慮し過ぎることなく。
「自我」というものを、もっと若い頃に、
(「天真爛漫」とまではいかないまでも、)もう少しだけでも自由に伸び伸びと育てていけたら、どんな自分になれていただろう?ということは、最近よく思うのだ。――ある程度、例えば他人を傷つけたりしない範囲内で、「我のままに」いくことは、果たして本当にそんなに「ワガママ」というやつになるだろうか?とも思う。
特に思春期以降は、この「自我」の部分が特に強化されていくように思えるのだが、その時期に、(今現在思い返したほうがむしろこれについてははっきり自覚できるのだが、)「いろいろ窮屈だなあ」と、どこかで、でも強く感じていた自分が、確かにいた気がするのだ。――正直、特に十代から二十代の頃の自分は、どこかいつも、外ヅラではおくびにも出さずとも、内面では相当「鬱屈」としていたなあ、と。(つまり当時は「鬱屈」状態が基本設定になっていたので、かえって自覚はしにくかったのだ。)

とはいえ。
まあこの「成長過程で屈折してしまった自我」だからこそ、その当時やその後に育った感性、みたいなものは確かにあって。
それは今現在、自分でもけっして「嫌いなものではない」のである。
その、少々歪かもしれぬ「感性の部分」がなかったらなかったで、「今の自分の面白みみたいなもの」は消えてしまうから。――その「感性」「面白み」がなかったら、その代わりとしてその空いた場所に何が来ていたか、あるいは、何かは来ていたのか(「空席のまま」の可能性だってあっただろうから)、そこまでは、仮定の話だとしてもまるっきり想像し得ないし。

まあ、まとめてしまえば。
「時間は戻せない。」この一言に尽きてしまう。(笑)
「以上のようなことをこの歳になって改めて考えだした」そんな「今現在の自分」から、また始めていくしかないし、育て直していくしかない。――「人生もきっと折り返し地点を過ぎたであろう、今」から、である。(笑)
でも、それを面白く楽しく清々しく遂行していくのが、ここからの「最善策」だということは、間違いない気がしている。

そんな、2022年現在なのである。