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「幸運」って、「高低差」の「高」でしかないのかも

外れた自転車のチェーンを、 自分で直し続ける人生。
――真っ黒い油まみれになったって、 誰かが直してはくれない運命。

「一人で生きていく」とは、 そういう事なのです。
――そんな前置き(「個人的現実」)はさておき。(笑)




先日のこと。

自転車出勤途中で、自転車のチェーンが外れてしまった。

――割とこれまでの長い人生の間で、自転車通勤通学をしている期間って、合わせれば自分は長くあったけど、「出勤途中」に外れた!ってのは、初めてだったかもしれない。

まあでも、ひと昔前と違い、最近の自転車って、割と直しやすくなってはいるみたいなんだけど。(ひょいとチェーンをひっかければ戻せる、みたいな。)
しかし今回は、車輪中央部にチェーンがガッツリ強硬に挟まってしまって。

抜けない!

――エエーっ?!マジか!!

「これ、歩いていったら、どっちにしたって完全に遅刻だしな」と判断して、もう「直すぞ!」と覚悟を決めてその場で何とかがんばってみた。(2,3分はひたすら格闘してみた。)
……が、どうがんばっても、やはり挟まったところのチェーンが素手ではどうやっても抜けない!
さすがにスマホで「何かいい方法ないかな?」と調べている時間はない。
(手も自転車油で真っ黒だから、あんまり服とか触りたくないしな。多分、付着したら洗っても落ちなくなる。)

あんまり遅れていってもいけない、と、判断を覆し、自転車を押しながら歩いて職場へ。(「そのまま直せない」ということは、どんどん「遅刻時間が伸びていく」ということだから。)
何だか不意打ち過ぎて、焦った慌てた、で、その上に暑かったりもあって(その日のその時間の気温、多分、33℃くらい。)、一日のエネルギーの9割くらいを、既に出勤前に使ってしまった感。
(つまり「グッタリ」でした。笑)


で、結論としては。
工具などを借りて使って、職場の休憩時間に何とか直しました。


「アハハハ~、良かったあ~!!」

直った瞬間、頭の中、文字通り、一面のお花畑になりました。(ホントに。)


取り囲まれていた以下の「絶望と不安」が、

・直らなかったらどうしよう。
・帰りも歩いて帰らなきゃかも。
・今だかつて職場に遅刻したこと(電車の遅延とかではあったけどそれ以外では)なかったのに!
・何とか自力で修理しようとして挟まったチェーンをこんなに力任せに引っ張って(さすがに自転車分解して元に戻す自信はない)、結局チェーンが「ブチッ」っつって切れちゃったらどうしよう。(買い替え案件だろうな……。)
・やってみても、結局はどうにも直せなくて、明日以降自転車屋に転がして持っていく羽目になるのか?(時間と修理代が……。)

頭上厚く覆われた雨雲のように重層的で灰色の「どんより」、その数々がこちらです。

これらが一瞬にして晴れると。
――どうなるかと言えば。


「理屈抜き」の「多幸感」でした!

嗚呼!
あの瞬間の「直ったーーーッッ!」ってのは、エンドルフィン(脳内麻薬)瞬時100%充満レベル(どういう状態だよ?笑)だったと思います。


その後は終日、どこか(いや、どこまでも)上機嫌な一日となりました。


――はい、賢明な読者の皆様は、ここでもうお気づきですね?

総合的に、全体でこの出来事を見たなら、これ、完全に「不運な出来事」のはずです。

「何で自転車のチェーンが外れて、おまけに車輪の真ん中部分にガッチリ挟まっとんねん!」
全ては「その出発点」につきます。


――でもねえ。
自分、「幸せというもの」の正体を見た気がしました。

「幸せ」とは、「落差」である。
つまり、「高低差の高の部分」でしかないのかもなあ、と。

(だからって、わざわざ「低」の部分を、好き好んで自ら作りに行く必要はないのですが、)(でもまあ、)やむを得ずやってくる、言い換えれば、どうしても避けられない「低の部分」つまり「不運」も、「甘味」を引き立てる「辛味」という役割も、大いにあるのかな?

「辛味」が強い分、きっと「甘味」も強く感じられるようになるってことなのかな?

……てなことを、「事実から学んだこと」として、ちょっと書き留めてみたかった次第です。