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「怒り」のエネルギーって物凄いよな(笑)

先日、「怒り」が収まらなくて、一晩中、一睡もできないのではないかというようなことがあった。
――延々とエンドレスに、沸々と湧き出してくるから、驚いた。
(それにしたって止まらな過ぎて「どんだけの湧出量を誇ってんだよ!「怒り」の名湯、名だたる温泉地か!」っていいかげん眠れない自分にしょーもないツッコミをいれたわ。笑)

「ああ、これは、これまでに既に、数年に渡って腹の底に溜まり続けてはいて、でもそこをなんとか自分で理屈などを付けて言い聞かせて抑えていたけど、あまりにも理不尽な上に明確なルール違反にいよいよ直面して、とうとう爆発しているのだな?」(長台詞。)
などと、グルグルグルグル……。
眠れぬ布団の上で、悶々と考えていた次第である。

――そんな睡眠不足状態でも、怒りが収まらないうちは(怒りに基づいての動き限定だが)どこまででも「動けはする」のだから、人間とは、大したものである。(笑)



とはいえ。

この、「大放出したエネルギー」は、もちろん自分の中に蓄えとしてあったもののはずではあるのだが、「打ち出の小槌」ではないから、「ふればふるほど、何もないところから生産される」わけでもない。

つまりこれは、貯蔵分、あるいは恒常生産分の基礎代謝的エネルギーが、「怒り」の一点へと、ただ「振り分けられているだけ」なのだ。

すると当然、「その他の部分」へは、エネルギーが振り向けられなくなったりもする。

たとえば。
「怒りの矛先」に対して集中が物凄く行き続けているその分、その他の方向への集中力が、どうしても欠けてきたり。
(つまり、総じて見れば、頭が正常に働いていない。
――うん、やはり私なんかは特にそこら辺、「怒りが果てしなく収まらない」という暫定的特殊能力(?)をもってしても、「万能」にはなれないのだよな。笑)


「感情的な怒り」のそのエネルギーには、恐ろしいほどの「爆発力」(だけ)があるのは、間違いない。

が、こうした「感情的な怒り」は、やはり相当「消耗」もするのである。



「怒り」の感情自体は、必要なものだと、私は思っている。
(その件は以前に一度note内記事にしたので、詳しくは割愛するが、簡単に述べるなら。
――あくまで一例としてだが、自分の、たとえば「尊厳」などの「大切なもの」を守るために、やはり「強硬に抵抗して押し返す気力」が必要になったりもするので、その時に「怒り」は役立つ、というようなことである。)


しかし、それもまた、「感情的」にまでなると、どうも、あまりにも消耗が激しくていけない。


こういう時、どうにかならないものだろうか?
――と、思案した結果、ふっと思いついたことがある。

相手を「人」だと思うから、「感情的」にもなってしまうのかもしれない。

そういう相手については、「人」だと思わないようにしてはどうだろうか?と。

たとえば。
ルールを平気で破るような相手や、理不尽な組織に対しては、これからはもう、そこに「人」は存在しなくて、「モノ」(あるいはそれで組織全構成されている)なのだと思うようにしてかかるのはどうか?と、考えついたのである。

それならば。
「モノ」に対してはこちらも、人間的な「情」をかけて差し上げる必要もない。
こちらも「冷徹に」、粛々と、対応・対処すればいいだけ、である。
(そして、ここでいう「情」には、良いものだけでなく悪いものも含まれる。
つまりありとあらゆる「情」=「人間的な気持ち」が、「もったいない」。)

――そうなのである、「情」があるから、それをこちらから(無駄なのに)出してしまったり、すると、相手にもそれは当然あるものと期待してしまったり、するわけなのであるからして。



「情」を動かすと、「感情」になる。

「感情」という「大変貴重なもの」は、「無意味なこと」「無駄なこと」に使うと、もったいない。
と、つまりはそのようにも私は思い始めたのである。


何故、「感情」を、「大変貴重なもの」だと、私は考えるのか。

それは、「感情」とは、「人を大きく強く動かし得る」、かけがえのない「動力」であり且つ「燃料」でもあると、私は思うから、である。


――「燃料」とは無論、「取り扱い注意」のものである。

たとえば、「情」に引火すると、良いものも、悪いものも、あまりにも激しく燃え上がってしまい、場合によってそれは、日常生活にまで影響を及ぼしてしまうくらいで。

で、それが、(「日常生活」が全焼したとしても、笑)「良い炎」であるなら、私は案外悪くはないよね?と思えるほうなのであるが。

概して、「怒りの炎」は、「悪い炎」である場合が、多い気もするのだ。
(ごく一例として、「不眠」に陥るとかね。笑)


――その相手は、本当に、その貴重な「感情」というものを、「向ける・使う・繋げる」必要がある相手なのか?

う~む。

そろそろ、そこの辺りを「吟味して」、生きていけるようになれたらいいなあ、なんて。
(だって、限られた人生の時間とエネルギーだから。)



と、そんな所謂「理想論」を、今回は述べたまでである。
(そう、これは「理想論」。――わかっていても、こうしたコントロールは、やはり難しいですよね。
自分は不器用なので、なかなかできないです。笑)