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人は「使うもの」じゃない

「自然と心が動くこと」は、その人にとっての宝物だ。


音楽でも文学でも漫画でもアニメでも映画でも、 何でも当てはまると思うのだが。
若い頃に熱中した「好きなもの」に、今でも救われているなー、と、常々思う。
ずいぶんと、 (例えばこんなご時世でも、) それらのものに、 気持ちを引っ張り上げてもらっている気がする。

学生の頃って、(勉強も大事なのかもしれないが、) そういう「熱中するもの」に対する気持ちを殺してまで 「やらねばならないこと」って、ないんじゃないかな?なんて思った。

「自然と心が動く」 。
その「動き」については、 どうか殺さないでやってほしい。


心は動く時に動かさないと、「心の動かし方」を、そのうち忘れてしまうんじゃないか?と思う。

「自然と動く」「動いてきた」そんなことでも、動きを封じ込めるような締め上げをギューギュー常にしていると、そのうちホントに、何に対しても心が動かなくなってしまう。

「心が動かない」は、ある種の「思考停止」を招いているのと同じように見受けられる。
――「心」がないところには、「自分」はいないし、「自分」がいなければ、「考える」という作業をしなくなる。

命令が「あれば」動く、命令「だけ」に従えるけど自分で考えられない(命令を出す人が間違っている可能性までは考えられない)、そんな「ロボットみたいな人」を増やしても仕方ない。

ロボット自体がこれから増えていくだろうこの世の中では尚更。


人が人としてできることを、まずやらんでどうする!
……と、思うのだが、
「人をロボットみたいに自分の思いのままに扱いたい人」も、この世には、それなりの数いるのである。
人が「使い捨て」感覚になったら?
同じ人間なのに 「使い捨てる人」と「使い捨てられる人」に 分けられていくだけの世の中にますますなっていったら?

――人って 「自分がされたことを返す」 習性があると思う。

誰かに使い捨てられれば、 その人にとって、人とは基本全般的に、「使い捨てるもの」になると思う。
これは別に、 仕事だけの話でもない。

人は「使うもの」ではないと私は思う。