「無心」になることで見えるものがありそう
この世のすべてのものごとに、理由があるわけではないのだ。
ってか、 理由が見当たらないもののほうが、面白い事が多い気がする。
「無心になる。」
それがこの秋のテーマだなー。
※(お金とかを)無心する、ではありません。(笑)
自分の行動に、いちいち全て、理由とか、目的とか、なくたっていいでしょう?
「その説明」って、誰のためにするものなの??
それでも説明を求められるなら、あえて、こう答えてみよう。
『とりあえず自分は単純なんで、笑うために生きていますかねー。
「最後に笑えるように」 ではなく 「ずーっと笑っていられるように」 ですねー。』
例えば、トマトが大好物な人がいて、その事に理由や理屈が「必要」だろうか。
んなもん、(あってもいいけど、)なくたっていいだろう。
トマトくらい、好きなように好きなだけ食えばいいじゃねーか! って話で。
早い話が、生きたいように生きればいいのだ。
――そこには別に、理由や理屈や名目や大義名分は要らない。
時々、笑って生きたがっている人に 「笑うな」と言ったり、トマト食いたがっている人に 「食うな」と言ったりする人がおられますが、そういう人のほうが、どう考えてもおかしいのです。
惑わされず、自由に生きましょう!