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「望んでもどうしても手に入らぬものだけが放つ光」はある

タイトル。
「そういうもの」があること自体が、きっと幸せなことなのだ。

それのせいで、眠れなくなったり、食事が美味しくなくなったり、何をしても楽しくないとか何をする気も起きないとかまでなったり、それがいつまでも続く場合は、「それを自分の心からバッサリ捨てる」(少なくともそのことについて真面目に向き合い過ぎない)も、選択肢の中に入れてもいいんだと思うけど。

でも、「望んでもどうしても手に入らないもの」が心の中にあるのって、そのこと自体は、案外悪いことじゃないという気が最近するようになった。
――たとえそれのせいで、のたうちまわったとしても、もがいたとしてもあがいたとしても。

いや~、だって、十代の頃は更に多くの「あきらめきれないもの」で、もっと世界は溢れ返っていましたよね?(私だけだろうか??笑)
そのぶん、「その光」で、もしかすると世界はもっとキラキラ(いや、ギラギラ?笑)輝いていたと思うんですわ。
世界が、確かに、殊更、その光のせいで、広大で、眩しかったと思う。

でも、今、50代にいよいよ突入し、「あの光」の強さの中には、たぶんもう入っていけないと感じている。
――あれって結局自力の「自家発電」で、自分を取り巻く世界をも、光らせていたんだと思う。――自分のほうから勝手にこの世界を照射して光らせていただけだったのかと思うと(あの光のせいで「こんなただの世の中」が多少なりとも輝いていたのかと思うと)、すごいカラクリだわな、と、ちょっとニヤニヤしてしまう感すらある。
そして、その仮定に基づけば、当時の「焦燥」とか「地団駄」とかすらも、「生命力の一種」であり、「こんな現世までもを明るく照らすための貴重なエネルギー資源」だったのだと感じる。

焦れたり、捩れたり、心がするのも、案外それはそれで幸せな「痛み」だったのかもしれないあ(無論当時はそんなふうには感じられずに悲鳴を上げていたりもしたけれど)(でも、本当はそんなことで人は死にやしないし、いや、心や精神も含めて死ぬ方向へとは間違っても持っていっちゃいかんのだ、それは自分で何とかするのだ、それが即ち生きること、生きようとすることだ)、なんてことまで思うようになって。

……。

……私もずいぶん歳をとったものだよな、と思う。(齢いよいよ50となりました。笑)


だから、今、「望んでみてもどうがんばったって手に入らないもの」がまだあるなら、それはそれで、その存在を「大事なもの」として捉え直してみるのもいいのかもな?なんて思い始めてもいる次第なのである。