「ダマされるほうが悪い」?…んなわけあるかよ
ここのところ、
「平然と嘘をつく人間」
が、ますますのさばる世の中となってまいりました。
で、
そういう人間の、基本的な思考回路や論調や態度って、
概して
「騙されるほうが悪い」
なんですよね。
下手すると
「上手に騙せる自分は賢いのだ」
とまで、
更には
「よりたくさんの件数、たくさんの人数を騙せるほど、自分の脳力は高いのだ」
と、こう思っているフシすらもある。
――うむ。
「気持ちが悪い」し
「気味も悪い」です。(笑)
長い時間をかけて検証すれば(「いくらなんでもかかり過ぎる」場合も多いけど)嘘は、暴かれることも多い。
一人の人の人生より悠かに長い「時間」というもののその中で、
たった「一時的にしか」せいぜい存在できない人間という「ただの一生物」でありながら、
その中の更に「ほんの一瞬」人を騙せたくらいで、
何をそこまで悦に入ることができるのやら。
「騙しやすい、騙せそうなヤツから騙してやれ」
っつーその精神ってさ、
「自分より力が弱い下級生から巻き上げてやれ」
と、そんなに変わらんけど??
何なの?
その「幼稚で単細胞なものの考え方」の
何が一体「賢い」の?
マジ、そう思えるその神経、どうなっているの??
と、素朴な疑問として思う。
ま、単純に、
「この世を呪っている」タイプの人間なんだろうなあ、とも感じる。
「基本的に他者を信用していないしできない世界」にお暮らしなのだろう。
(「騙し合い世界」ご愁傷様です。)
(「自分は他人を騙すけれど、他人は自分を騙すはずがない」なんて思っていたら、かなりオメデタイ人だしな。まさかそんなこと思ってないと思うけど。笑)
というか、(意識的な場合も無意識的な場合も)
「人を陥れてそれでマウントを取っている(そんな気になる)」時点で、そういう方々のお住まいは、「安住の地」とは対極にある、なかなかどうしてささやかながらも「じわじわ自分の足元から湧出し続ける煮え湯地獄」かもなあ、なんてことも感じる。(想像するだけで安らぎが遠ざかるよね。笑)
――(しかし、)ささやかでも、自分でこさえたそんな地獄に、自分で勝手に住んでいるんだから、簡単にそこからは抜け出せないよ。(もしかすると死ぬまでな。)
例えば、
私は個人的に、一度でも「顔色を一切変えず平然と嘘をつく」なんてことをされた場合には、もうその人間とは、本心からのやりとりは一切しなくなる。
(ハイ、心が狭いもので。笑)(※分別のない幼児ならともかく、成人の場合は、私の中で「一発アウト」です。)
――そしてたぶん、死ぬまで、その人に対するその「評価」(つまりこれは「好き嫌い」とはまた別の観点)を変えることはないだろう。
(表面的にはともかく内面的にはまずない。嫌悪感そのものは薄れることがあっても、「この人は嘘つき」認定だけは、永遠に覆らない。)
「顔色も変えず平然と」――「バレたらどうしよう」という良心の呵責やそれに類するものを、これっぽっちも感じさせない「稀代の嘘つき」って、やはり(面識のない著名人・面識のある人、問わず)実在するにはするけれど。
(ま、「心底嫌い」なのは言うまでもないが、それ以上に)
その方々に対してあるのは「忌避」感である。
言うなれば
「こっちの世界に入って来るなよ」感。
「人を陥れる嘘」は、かなり厄介な「害毒」であり、「汚損」だと思うからだ。
毒に交われば、その「解毒」には、それなりの時間や体力を要することにもなり、はっきり言って「無駄」だし「面倒」でしかない。
――そんなものにつき合わされるのは「ただただ迷惑」だ。
そして、その「汚れ」もまた、気づいてすぐ払い落として事なきを得る場合もあるものの、深く染み付いて、簡単には落とせぬ状態になることもまた多いものだ。
それはさながら、Yシャツに、胸ポケットに差していたペンのインクが染み出ていて「あーッ、これもうシャツ1枚、捨てて買い換えないとダメなやつじゃん!!……たかだかこんなペン1本のせいで!!!」という「絶望感」にもどこか似ている。
――「噓という汚れ」が着いていることに自分で気づいていながら、そのままその汚れを人目に晒しつつ、そのシャツをあからさまに着続けることは、実際なかなか感覚的にできないでしょう?(……本来まだ着れるはずのシャツが!もったいない!!)
「信用」とは大切なもの……であるその割に、
案外、いとも容易く、
壊れたり破れたり汚れたり、
「永遠に失ったり」も、するものなのだ。
(いつもの自論だが)
世界は「人の数だけ」ある。
――その人毎に認知している世界こそが、まぎれもなく、その人(オリジナル)の「起源的世界」であるからだ。
それぞれの人が「認識している世界」は、(そりゃ当然そうなるはずだが)その人の「認識の中にしか」存在し得ない。
そして、人と人とが交流(直接的・間接的問わず)することで、世界は、その交流人数分、広がりもまたみせるものだ。
――自分ではとても数えきれない数の人の存在を、そこに認知さえできるならば、
即ち、
「世界」の意味とは、その存在とは、なんと「無限」とすら同義にもなるのである。
但し。
例えば私なら「他者を陥れる嘘」の世界は(直接的にはもちろん間接的にも)いらないし触れたくもないし。
また、この世のほとんどの人も、それについては同様に感じているのではないか、と、思う。
(「騙されやすい人は騙されたがっているのだ」という理論も見受けられるが……まあ、そこまで広げて書きだすと話が複雑になるし、またこの記事も長くなるので、それについてはまた記事を改めます。笑)
「陥れる嘘」を平然と携える人間――そのように認定されたなら、その人はいずれ、その人個人の頭の中、つまりたった一人分の狭い世界の中だけで生きていくことを余儀なくされるであろう。
それを平たく言えば、「マトモな人は(あるいはマトモな人から)その人を信じることはない(なくなっていく)」=「マトモな人は寄り付かない世界になっていく」ということである。
そうやって、ますます「マトモから遠く離れた世界」へ、せいぜい行くがいい、と思う。
無差別に、他者やこの世を、呪って騙し続けたその「報い」を、そうして受けるがいい。
「嘘の世界」は、「心からの、実際の、本物の、人の体温のない世界」だ。
――そんなどこまでも冷え切った海底へと、自分が冷え切って凍り付いていることも(場合によっては死ぬまで)気づかずに、「満面の悦に行った笑顔」をそのデカい面に貼り付かせて勝手に、浮かれながら沈んでいけばいいのだ。
つくづくこのことを鑑みても。
この世界とはやはり、「自分というものを映す鏡」であるなあ、と、私には思えてならない。
そうなのである、
私たちが実際に生きている、生きていける世界は、「絶対零度あるいは温度というものの存在しない架空の世界」ではないのだ。
「自分の体温のある現実世界」
――言い換えれば「自分の姿が、そこにそのまま『世界』として映し出される鏡張りの世界」なのである。
「平然と嘘をつける人間」を、私は、憐れだとも思う。
前述の通り、
「躊躇なく人を騙せる」時点で、かなりの数の「他者が携える世界」を、それに触れる機会を、失ってもいるからだ。
無論そこに「特に同情の余地はない」――その代わりと言っては何だが、そういう人間に対し、つい、私はこうも考えてしまう。
「本当に呼吸ができる現実世界を、そうして自分で勝手に狭めながら、ゆるやかに窒息するように、
そしてその苦しさに「自分ですら」気づかぬまま
(「苦しいのに、自分で自分が苦しいことに気づかない苦しみ」って割とそこかしこにありますね?)
生きていくがいい」
と。
(だって「騙す」という行為は、まず真っ先に「自分を騙す」ということだから)
そして改めて問う。
「賢さとは、なんだろうか?
――少なくとも、その鼻持ちならない「計算高さ」と「傲慢さ」は、「本物の賢さ」とはかなり違う類い(というか「真逆」)のものかと思われるが?」と。
本物の「賢者の知恵」とは、誰にとっても(無論、巡り巡って最後自分にも再び)有益なものを指すのではないだろうか。
それなのに。
「あなたが自慢げに携えて時々撒き散らしてもいるソレは、『賢さ』でも『知恵』でもなくて、『ただの毒』でしかないと思うのたが??」と。
(あんまり他者を罵りながら生きたくはないのだが、「人を陥れる嘘を平気でつく人間」については、実はガンガン積極的に公然と罵っていこうと思っている。――自己防衛のためにも。笑)
風邪が流行っておりますね。
――私もこの間ひきました。(珍しく流行りにのったわ。笑)(おかげさまで悪化せず、すぐに治りましたが。)
それにしても、
「何でウイルスなんてものがあるんだろう、こんなものないほうがいいのに」
なんて頭痛に呻きながらそのとき思ったりもしておりましたが、
ま、しかし、
「この世」をお創りになった神みたいなもの(が仮にいたとしたなら)の「はからい」なんてものは、神ではない私達に、本当の意味で理解ができるわけが、そもそもないのだし。
(「頭痛」にすら意味があるのかも?ということ……?!?!)
そして、
「我々にとっては害にしかならないものだろうとなんだろうと、そこにあるものは、あるのだ」
早い話が
「そこにあるものは仕方ない」
のでありまして。
――「風邪の」ウイルスは、一つの喩えでしかありませんが。
「簡単に感染しないよう、常日頃から、できる範囲で鍛えておく」
ということと、
「それでももし感染したなら、ちゃんと回復させ、それによって『免疫』をつける」
ということが、きっと肝要なのでしょう。
――そうそう、「リアル・ウイルス対応」は、大変ありがたいことに、割と身体のほうが勝手にやってくれていたりもするのですが、
「心や精神や知識」に入り込む「物理的ではなく比喩的なウイルス」は、「身体のほうで勝手に」というわけにはいかない。
「心や精神や知識」の鍛錬なり、免疫力なりは、割と「自ら意識して」行っていかないといけないのだよなあ、と。(しみじみ。つくづく。)
極論を言えば。
「一見迷惑でしかないウイルスのおかげで、自分は鍛えられ、免疫が付き、(本当の意味での)賢さを増やしていくことができる」
と、こう解釈しておくのがどうも、「モヤモヤするこの気持ち」の落としどころとしては、比較的良い気もまたするのである。(笑)
「嘘」や「嘘つき」に対しての、糾弾や、善悪の判断は、当然、あってもいいものである。
が、しかし
「嘘」という「害毒」が「既にそこに存在していること」「生み出してしまう人間がいること」それらについては、正しいも正しくないも善も悪もない。
――これはどういうことかと言えば。
「存在してしまう」「発生してしまう」ということは、それ以上でも以下でもないということである。
つまり、現世の中では、
間違っていようが有害だろうが、それ自体を今更「存在しなかった」に置き換えることはできない、ということだ。
「既にそこに存在している毒」に、これから、ここから、(そう、生きていく我々にとってすべては「これから・ここから」の話)どう対峙し「解毒」していくのか。
(言うまでもなく、あるいはまた無視するもよし、避難するもよし、である。)
そして、うっかりと触れてしまったその場合は、「こうなったら、自分を更に賢くするため、勉強材料として利用しよう」というのも、一興なのやもしれない。
「怒」の感情は必要だが、それによって冷静さを欠いて狂わされては、「害毒」の思うツボだ。
(「毒を撒きちらす人間」は、その無意識下で、それもかなり強く狙っていたりするのだと思う。)
――感情の免疫力(一言で言えば感情の波によって「取り乱さない」「我を忘れない」)を高めねば!なんてことも、常に頭に置いておいてもいいのかもしれない。
そういった「呪い」を、真心こめて(笑)「真に受けない」こと――「やり過ごす」意識は、割と大事なことだと思う。
有限な人生の「持ち時間」と「持ちエネルギー」を、有効活用したいから、私はそんなふうに考えるようにしている。