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どうせ「怒る」ならそこに「誇り」を持つ

「後で思い出したくもない感情」は、なるべくなら減らしていきたい、という話である。


突然不意に、昔の「喜怒哀楽」が思い出されることが、私には時々ある。

「喜」と「楽」はいいとして。「哀」もまだ受け入れられるのだが。

「怒」だけは、何というか、処理に困る。――しかし、これが一番多い気もするのだよなあ。
多分、そこには、癒えていない部分もあって、自分の中で結局「未消化」になって残っていることもまた多いからであろう。


そういった負の感情ですら、「完全に忘れ切ることはできないのか」、と、気づく。――この歳にして、幼少期の頃のものまで蘇ってくるのだから。――そういったものは、このまま、一生「どこか」で、憶えているものなのかもしれない。(もちろん遠ざかり薄まってはいくのだけれど。)

「忘れる」という機能については、自分の意識下でコントロールしきれるものではないのだろうなあ、と感じている。――せいぜい、「なるべく思い出さないように気の持ちようを工夫する」くらいまでしか、意識的にはできないのであろう。


「その当時の感情を違う色に塗り直す」というのも、できそうで、案外できない。――だいたい「その時に他人が関わっていた感情」であれば、それはもう、難しい。

例えば、「許せない」を「許せる」方向へと、「後付け」の理屈を加えて、自分で自分に「言い含める」ことくらいはできるけれど。――しかし、その当事者は既に目の前にいるわけでもないし、過去に起った事実自体を変えることもできないし、そうやって「思い出している今の感情」は変えられるのだけど、「その時の負の感情」自体は、「その当時のもの」だから、今更交換はできないのだ。


最近の記事で、自分にとっては「今現在」が一番大事だ、というようなことを何度も書いてきた。――それは本心であるし、そういう考え方に私は既に変わっていると思う。

でも、「過去に一切縛られない」というのは、記憶喪失にでもならない限り、難しい。――実感として、そう思う。
「過去」を教訓として、今現在の、この一日一日を、なるべく好きな色に、塗り直していくことしかできない。――過去の、なかなか取り換えがきかぬ負の感情すら、「ある種の深み」になるように、時の蓄積の上に重ねて、今日の感情を「重ね塗り」していく、それくらいしかできない、ということである。


それならば。
「今」と「これから」の話をしていこうではないか。

「その時の感情」は、どのようなものでも、後々思い出す可能性があるのであれば。

今とこれからについては、「すべての感情に、リボンを掛けてしまえるように」と思っている。――そんな感情ばかりを集めるように、日々を暮らしていけたらいいなあ、なんて思うのである。

――はい、おっしゃる通り。
「そんなの理想論に過ぎない」と言われれば、その通り。

「負の感情」に、どうやってリボン掛けるんだよ?っていうね、――そりゃあ、そう思いますよね。(笑)

「怒らない」「哀しまない」で生きていくなんて、無理であろう。――以前にも書いたが、「怒」も「哀」も、この世を生きていくうえで、どうしても必要な感情であると、私は思うからだ。

ならば、どうしても生じる「怒り」「哀しみ」を、どうすればいいだろう?――と、考えてみたのだが。

ただ「感情的」になるだけではなく。
単なる「不機嫌」に終始するのでもまたなく。

「負の感情」には、「自分なりの誇り」をどこかに必ず携える、というのは、どうだろうか?

例えば、「怒」であるなら、後で思い出しても、恥ずかしくも、不快にもならない、そんな「怒」になるように――「誰か、あるいは自分を守るための」とか、「この世の汚れたものを一掃するための」とか、その時どきで、そういう方向に、「怒り」を引っ張っていくようにはできないものだろうか。

「誇れる怒り」「清々しい怒り」――うん、我ながら、理想論をさっきから繰り返しているとは思う。

でも、できないことではない気もしてきている。
――「理想」くらい、個人的に試しに持ってみたって、誰にも迷惑はかけないでしょう?――まず、ぶち上げて、語ってみるところから始めないとね。
「理想」ってそういうものだと思うんですよね。(笑)