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「吸収する季節」「実らせる季節」

思い起こすに。

若い頃の「吸収力」たるや、それはもう、凄まじいものである。
――今現在の自分と比べて、同じ人物とは、それはそれは信じられないくらいに。

とはいえ、私の場合のそれは、「好きなこと」「思い入れのあること」に、まあ、限られてしまうのであるが。(笑)


「出会う」、そして場合によってはその「第一印象」だけで、ガーッと、好きになる。
で、凄まじい力で、そのことについて、大量に吸収していく。

その力についてはもう、(後に「役立つ」とか「役立たない」とかも関係なく、)ある種の、「天からの贈り物」なのではないかと、私は思っている。

「何かを好きになる」って、貴重なことだ。
――それがもたらす「腹の底から湧き出るような力」の絶大さは、何物にも代えがたい、「人間」が受けられる「天恵」だとも思う。


で。

「何かを好きになる」そして「それを吸収していく」その力は、歳をとるにつれ、やはり弱まっていくと思う。
(繰り返しますが、※個人比ですし、※個人の感想です。)

――いや、今でも、新たに何かに興味を持ったり好きになったりということは、あるのだけど。
しかし、若い頃のようなあの猛烈な勢いと集中力は、何に対しても、今はもう、なかなか持てない。

もしかすると、既に、脳内や心の中に、「好きなもの」「興味あるもの」「思い入れがあるもの」の在庫は溢れ返っていて、そろそろ、「収納スペース」が、足りなくなってきているのかもしれない。
――若い頃はまだ十分「余白」があったのだろう。

そして、そういうのって、「スペース」を空けるために、自分で意図して「断捨離」とかできるものでもないしなあ。(笑)

それを感じるにつけ。

ああ、そうか、自分の人生の中の「吸収して蓄えていく季節」(それを中心にしていく季節)は、もう、そろそろ、終わりを迎えようとしている(あるいは、既に終わっている)のかもしれない??なんてことを思う。


その「吸収する季節」の「代わり」と言えるものなのか、どうなのかは、定かではないのだが。

今、書くことをしていて、独り善がりではあっても、ある種の「実り」であるとか、あるいはその「収穫」のような感覚が、多少なりともあるようには思える。

――これまで吸収・蓄積してきた「材料」「栄養」を使って、実るものもあり、更に熟成させていくものもあり、と言う感じだろうか。


二十年前には書けなかったことを書いている、そうふうに、時折思えることもある。

例えば。

これまで、苦い思いも、ハラワタ煮えくりかえる怒りも、理不尽な試練も、いろいろあったけど。(そのうちごく一部の詳細は、前にここnoteに書いたこともあるが。)
でも、「それらがあるからこそ」感じられた、考えられた、そして書けた、そんなことも結構あるわけである。


「神様は越えられない試練を人にお与えにならない」というのは、私はウソだと思っているが(ゴメンナサイ! だって、越えられない人は事実いるから!)、しかし、そう「信じこんでみる」価値は、十分にあるとも、(私個人としては、)(今になって、)思っているところもある。

試練は、「必ず越える」、あるいは「そこを必ず抜ける」、そんなイメージでいたほうが、きっといい。
(「ダメだ」と思ってしまえば、ダメになる確率は高まる。)

そして、「試練」は、いずれ「肥し」にも、実際できるものだ。
――それも、結構「栄養価」の高い「肥し」だ。(これは経験談。)

「苦しみ」は、そう考えると、(そう考えるほうが尚更、)のちのち「無駄」ではない。
(但し、「苦しみ」だから、逃げても避けても除けてもいいのだ。それでもちゃんと「栄養」になる。)

自ら望んで猛烈に吸収した、甘い栄養もあり。
望んでも頼んでもないのに、降って湧いた、そんな一見「毒のような」苦い栄養もあり。

――人間の心は、心がけ次第で、それらすべてを「肥し」にできる、「土」のように思える。

やわらかい土になるように、すべてを「肥し」にできるように、耕し続けようと思う。

――いずれ、最高に豊かだと自分でも思える「土壌」が、出来上がるといいのだが!!
(そうそう、祈っとけ!願っとけ!笑)

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