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心に残らないような「贅沢」ならむしろしたくない
一つ一つが心に残らないような、
そんな「贅沢」なら、
自分はしたくない。
と、最近、思うようになった。
言い換えると、
「垂れ流すような贅沢」
ということだろうか。
そういうのを、私自身は、
なんとなーく、
「望まなくなった」、
といえばいいのか。
(湯水のように使う贅沢みたいなのが
似合う人もいると思う。
だから他人の贅沢については
本当に何も感じない。)
(但し、自分がやるとなると
そういうのって
「しっくりこない」のである。)
(つまり、それに気づいたので、
そういう「絶え間ない贅沢」に対する
「憧れ」がなくなった、
ということもあるのだろう。)
これは、
「ハレ」と「ケ」の区別を
キッチリしたい、
とも言い換えられる。
――さて、この感覚は、
どこからきたのだろう??
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例えば、旅に出る。
奮発してちゃんとした宿に泊まり、
上げ膳据え膳でその上美味しい、
そんなものを三食いただく。
――でも、
そうしていながら、
ある程度のところで
「満足」できる自分でありたい。
そして、
そんな「ハレ」を味わったら、
それ以上に、
それより上の意識で、
「ケ」を大切にする、
そんな自分でありたい、というか。
「そろそろ通常の暮らしに
――自分ちのせっまいアパートの部屋の、
でもかけがえない『いつも通り』に
戻りたいなあ」
と感じる、その感覚を、
忘れたくないというか。
「贅沢」は、
私にとって、
「非日常」であり、
「足が浮いている」状態である。
たまにはふわふわと「浮足立つ」のも
いいと思うのだが。
――しかし、
それが「常態」となっては、
私の「生活」
――生きる、あるいは活きる
その「日々」自体は、
どこへも進んではいかない。
![](https://assets.st-note.com/img/1673153709177-jzoEudvf6k.jpg?width=800)
愛すべき、その「単なる繰り返しの日々」を、
しっかり、自分で、
「自分の生活」として引き受け、
地に足を付けて営みたいのだ。
そして、その「常なる日々」に、
――そう、その生活が
「日常」として成立していることに、
どこか心の奥ででも、
でもきっちりと、
いつだって感謝している、
そんな自分でありたいのだと思う。
以上、↑こちらの昨日の記事で書き足りなかった部分を、本日書き足してみました。
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