見出し画像

心に残らないような「贅沢」ならむしろしたくない

一つ一つが心に残らないような、
そんな「贅沢」なら、
自分はしたくない。

と、最近、思うようになった。

言い換えると、
「垂れ流すような贅沢」
ということだろうか。

そういうのを、私自身は、
なんとなーく、
「望まなくなった」、
といえばいいのか。

(湯水のように使う贅沢みたいなのが
似合う人もいると思う。
だから他人の贅沢については
本当に何も感じない。)
(但し、自分がやるとなると
そういうのって
「しっくりこない」のである。)
(つまり、それに気づいたので、
そういう「絶え間ない贅沢」に対する
「憧れ」がなくなった、
ということもあるのだろう。)


これは、
「ハレ」と「ケ」の区別を
キッチリしたい、
とも言い換えられる。

――さて、この感覚は、
どこからきたのだろう??

例えば、旅に出る。

奮発してちゃんとした宿に泊まり、
上げ膳据え膳でその上美味しい、
そんなものを三食いただく。

――でも、
そうしていながら、
ある程度のところで
「満足」できる自分でありたい。

そして、
そんな「ハレ」を味わったら、
それ以上に、
それより上の意識で、
「ケ」を大切にする、
そんな自分でありたい、というか。

「そろそろ通常の暮らしに
――自分ちのせっまいアパートの部屋の、
でもかけがえない『いつも通り』に
戻りたいなあ」
と感じる、その感覚を、
忘れたくないというか。


「贅沢」は、
私にとって、
「非日常」であり、
「足が浮いている」状態である。

たまにはふわふわと「浮足立つ」のも
いいと思うのだが。

――しかし、
それが「常態」となっては、
私の「生活」
――生きる、あるいは活きる
その「日々」自体は、
どこへも進んではいかない。

愛すべき、その「単なる繰り返しの日々」を、
しっかり、自分で、
「自分の生活」として引き受け、
地に足を付けて営みたいのだ。

そして、その「常なる日々」に、
――そう、その生活が
「日常」として成立していることに、
どこか心の奥ででも、
でもきっちりと、
いつだって感謝している、
そんな自分でありたいのだと思う。

以上、↑こちらの昨日の記事で書き足りなかった部分を、本日書き足してみました。

この記事が参加している募集

#最近の学び

181,634件

#今こんな気分

75,735件