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「食べものが喉を通らなくなる」ほどデリケートではないけれど
ちょっと前の出来事である。
職場の食事休憩前に、(個人的なものであるが、)「大変心配なニュース」を耳にすることとなった。
すると、持参していた御飯を、食べたくなくなってしまった。
――これは、「私みたいな者にとっては」、大変に驚くべき事態である。
タイトル通り、それで「食事が喉を通らなくなる」ほど、私は繊細な人間ではない。
が、しかし「味がしない」とは、このことか、と。
――うん、気持ちの表現としてそう言っているのではなく、本当に、「美味しい」とは、感じられなくなってしまった。
これだけ普段は、異様に食い意地がはっている私が、である。
(本当にこれまでの私にとっては珍しい事なので、歳をとって、神経等の機能が脆くなったという部分も多少あるのかもしれない。)
いっそのこと、只今絶賛ダイエット中(久々の経過報告します:「少しず~つ」、継続中です。笑)なわけでもあるから、一食抜いてしまうか?とも思ったのだが。
「完全空腹状態」によって、気持ちの波が(概してそれは悪いほうに)振れる自分の性質を知っていたので。
(その考察は、この記事にも以前書いた。)
一応、用意していた食事の半分は口にして、後は持ち帰った。
そういや。
「食べもので生かされているのだよなあ」ということは、以前にも記事にしたけど。
しかし、それ以前に。
「食欲が湧く」ということ自体が、「まず精神的に平穏に暮らせている」という「幸運」の上に、成り立っているものなのだよなあ、なんてことを思った。
「食欲が湧きすぎるほど湧く」
――うん、我ながらここまでの人生の日々、「必要以上に欲し続けることができる」時点で、「悠長」というか、「いい気なもんだよ」な生活なのであるよなあ。
つまり、「食べもの」だけがあっても、それを美味しく感じられるような精神の「平穏」が最低限保ててなければ、人間の健康は損なわれるのか、と。
(「ヤケ食い」ですらも、それができるだけ、まだ生命力は大丈夫なのかも?とも思った。)
――まあ、精神的に(もう既に「図太く」はあるのだけど、いっそのこと、)更にもっと「頑丈に」「タフに」なりたいものだなあ、と、つくづく思う。
「自分自身の精神が揺れない」ということもあるのだけど。
しかし、足元の地面そのものが、揺れ出さない保証はまったくない、ということもまたあるし、そこが揺れ出すと、どうにも「普通に立つ」ということすら、ままならないのだよなあ、なんてこともまた思ったり。
こうして「毎日note」を銘打って、書かせていただけているわけだが、これもまた。
――そう、また、このこと自体が、「実に平穏な毎日」の、既に象徴なのかもしれない。
足元から大揺れの状況の中でも、私ははたして、こうして書き続けることができるのだろうか。
(たぶん、少なくとも、「落ち着いて改めて考察する」作業から生まれるような、これまでここに書き綴ったのと同じ方向性のものは、書けなくなる気がする。)
正直言うと。
そのニュースを知った翌日は、まだ引き摺っていて、「悠長に」ここにいつものように文章を綴ることができなくて、書き溜めていたストックから一つおろしてそのまま掲出した次第なのである。
――これまで書いている時は自分なりに、「自分の日々というものの真ん中で」、言うなれば書くという行為に対して結構「真摯で切実な気持ちで」、書いているつもりだったのだが。
しかし、その「真摯」「切実」や「本気」「全力」すら、ただの「心の余裕」でしかなく。
――即ち所詮、「悠長」の一部なのだよなあ。
なんてことを、(至極、個人的にであるが、)しみじみ、思い知った出来事だったのである。
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最後まで読んでくださって、どうもありがとうございます。
「その出来事」を、詳細は書けずとも、こうした断片的な形でもここで書くことができて、今少し、心が緩んだ気がしています。
書かせてもらえて、それをどなたかが、きっと読んでくださる。
そのことだけでも、本当に感謝だな、助けられているな、と、つくづく思います。
(という言い方が我ながら、ちょっと一方的に重くて湿っぽくて、本当に申し訳ない気もしますが。スミマセン。)
(でも、やっぱり、)
重ね重ね、ありがとうございます。