「いつか書けなくなる日」のために
「もういい加減、書くことについて、自分の中にあるものを、出せるだけ全部出し切ってしまいたい」
という気持ちがどこかにある。
「書くこと」が、大好きな自分ではあるのだ。
しかし、「もうこれ以上はどうしても何も書けない」という「限界」「空っぽ」を迎えたいような気持ちも、自分の中のどこかにある気がしている。
「大好きなこと」だからこそ、「どこかであきらめてラクになりたい」みたいな気持ちが、正直、少しある。
変な話だが。
「書くこと」が捨てきれないでいる以上、それは私の中で「幅を利かせすぎている」ものだから、「それとはまったく関係ない完全に自由な別の世界」が、私の中で展開していかない気がしている。
(我ながら、不器用だとは思うけれど。)
たとえば、こんなこともまたある。
「他の仕事に転職すると、書く時間が全くとれなくなるかもしれない。それだけはどうしても嫌だなあ。」なんて思っていたりもする。
その反面、「今の職場でずっと、ってわけにもいかないかもしれないなあ。」なんて現実的なことも、――閉塞感、言うなれば「行き止まり感」をそこに感じながら――同時に考えざるを得ない部分もあり。
正直、ちょっとそれが苦しくも感じられても来ている、今日この頃である。
だって。
「書くこと」をやめても、多分、人生は続いていってしまうから。
――「それが失われたとしても、それでも、生きてはいかなければならない」からだ。
日々の大きな部分を占める「書くこと」を、すっぱりどこかで仕舞う(終う)ことができたなら、多分、また私を取り巻く環境というか毎日というか、言うなれば「人生」そのものも、変わっていくことになるだろうとは思う。
「どうでもいい毎日」というと聞こえは悪いが、それはまた「何かに縛られない身軽な毎日」「自由にどこへでも流れのままに流されていける毎日」ということでもある。
――きっと、「予想もしない展開」や「新たな可能性」は、(その選択肢だけでも、)そちらのほうがずっと広がりはするだろう。
というか、それ以前に。
仕事もそうだかそれ以外諸々も含めて「そろそろ自分の現況について変えないとマズいのかもな?」という気持ちも、少々あったりもする。
でも。
でもなあ。
極端な話、後の人生を台無しにしてでも、――何ならそれで寿命が短くなるようなことが、仮にあったとしても。
「書くこと」を、今は、やめたくはないんだよなあ。
「刹那主義・楽観主義的に、ただただラクなほうへラクなほうへと、逃げているだけなのでは?」とも、自分の胸に手を当てて、考えたりもしてみた。
が、それも「違う」とは、はっきり思う。
「ラクだから」今の生活を続けたいというわけでもまた、ないと思う。
(正直、特に今の生活は「ラク」というわけではないし。笑)
――これらは、よくよくよ~く、「自問自答」してみたその結果である。
いずれにせよ。
「それくらい思い入れのあることが続けられている」というのは、ただただ、「今」という時間の中では、「幸運」なのだとは間違いなく思うから。
そうだなあ。
――もう、割り切っていこう。
今はその「幸運」を、味わえるだけ味わおうと思う。
(だって、いつまでこの「書き続けること」=「一番望む幸運」が、つまり今の環境が続けられるかも、わからない気がしてきているから。)
多分、一回きりの人生だしね。