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この世の半分は元から期待外れですが何か?

(一つ前の記事の続き。)

「沼」。

――そう、他人様が
「私は沼でありたい」というのを
別に止める気はないのだ。
それはその人の好きでいい。

しかし、自分は
「沼地化」したくはない。

例えば
「おかしい」と思うなら、
「変えるべきでは?」と思うのなら、
それを黙ることで
「沼々」
(「ヌマヌマ」?笑)せずいたい
つまり、
心の動きを堰き止めたくはないのだ。

そして、いつだって自分の気持ちくらいは、
清々とさせていたい。

自分のそれをそうできるのは、
結局は自分だけだと思うので。

「動かしたい」と意識が自ずと働くなら
実際、動かすのだ。

自分の心は、
例えば高い所から低い所へ
「自然と」流れ続ける、
「川の水」のようでありたいのだ。

――「川の水」は
動いていなければ
「川の水」たりえないであろう。

前記事タイトル
『希望を失ってみたところで
何かいいことありますか?』

これについて
「楽観的過ぎるのもどうかと」
と、感じる人がいるのは理解できる。


「悲観」には、いいこともある。

「悲観」は、ライフハックにもなるからだ。

悲観的な人のほうが、
慎重に動きもする
あるいは動かないので、
リスクが減らせたりということは
実際あるようだ。

しかしである。

今の世の中、実は
(慎重でも「動く」ならまだしも)
「動きさえしなければ」で
期待できるような、
「現状維持」は難しい。

何故なら、
思った以上の「理不尽」や「悪意」、
そっちもまた、
「コッソリ・ヒッソリ」
とはしているわりに、
ずいぶん
グルグル渦巻き、ますますお盛んに
「蔓延り続ける」社会構造だから。
(国内外問わずです。)

つまり、
自分は動かずとも、
周りが
(特にその一部は「意図して悪いほうに」)
動こうとしているのだから、
「変わらないでこのまま」とは
いかないのである。

――今、若い人も含めて、
「今がまあまあ安泰なら、
とりあえず、現状維持でいいじゃない?」
という考え方が
主流のような気がしていますが、
……多分、少なくとも
「この状態でキープ」とは
なかなかならない。
(そのことに、そろそろ皆
気づき始めていないのかな?)
あくまでごくごく一例に過ぎないが。
例えば、
「国民負担率」は知らぬ間に
ジリジリ上げられ続けている。
――ホントに大丈夫?
これ、単なる「仕方ないこと」では
ないと思うのだが??

「こちらさえ何も変えなければ
自ずと全て現状維持できる」
というふうにはならない、
ということについて。
――だって
(あえてハッキリ言えば)
相手側は
「ますます図に乗ってくる」
その可能性だってあるわけでしょう?
(「悪事」が指摘され露呈したところで
大体が開き直って
「反省ゼロ」の方々だからね?
――そういう方々が
好き勝手やりたい放題に
「牛耳っている」、
もうそこらの独裁国家と
変わらなくなってきているよ?)

そして、
「動いても無駄」
「新たな希望を持っても仕方ない」
と考える
悲観的なタイプの人のほうが、
「思考や精査することすら止めて
そのまま動かない」ことについて
「その結果は大丈夫に決まっている」
という「非常性バイアス」を
ここでは何故だか働かせてしまう、
――そんな不思議な
「悲観と楽観のねじれ」が
観察できる事象である気もする。

慎重に、動かぬまま、
例えば
現時点で「まあまあ勝っている」くらいに
陽当たりのいい場所を陣取っている、
それだけでは、
そのうち知らぬ間に、
予告もなく、一方的に、
罪もないのに、
除草剤まかれたり引っこ抜かれたり踏みつけられたりブルドーザーで掘り起こされたり、
というような目にも合わされるのが、
今の世の中だったりもする。
(そもそもがその
「日当たりのい居場所」が
どんどん減っていっている世の中なのだ。)
(それは皆、今現在、
肌身に感じ始めていることなのではないか?)

私は
「それもまた仕方ないじゃない?」
と、諦めたくはない。

だから、
その結果はどうあれ、
「少なくとも動けはする自分」
ではありたい。

――そういうことに
「立ち向かって動く」なら、
せめて悲観的にならないように
(精神が「ムダに」
ダメージ受けちゃうから)、
むしろ楽観的にいたいかな?

このごろの私は感じている。

極論を言えば
(そうです、以下、
「極端すぎる」という自覚はあります。笑)
私は、
「希望」は、
叶えられずとも、
「叶えようとする」その行為のほうに、
むしろ価値がある
とすら思っている。

いや、それこそが
「人として生きる」ということじゃ?

だって、
やっぱり私達、
ただの「空地の雑草」ではなくて
「考える(考えてしまう)雑草」
なのだもの。

人間なもんでね。

そうそう。

「時間」とはホント、
流れていてこそだとも思うので。

自らがその「時間」に乗っかるしかない
「生物」である以上、
気持ちを中途半端な地点で
「沼地化」させることにより、
「古い水」「いずれ腐る水」
となって
一点に留まり続けていてもなあ、
ということもまたある。

――常に心を動かしていて
(動かそうとしていて)、
それに伴い自分も動いていて
(動こうとしていて)、
流れているような、
透明な水でありたいなあ。

そして、
自分についてそう引っ張っていけるのは
自分だけだ。
(誰かにそれをさせるわけにはいかないし、
そのほうがいいのだ。
――時々それは大変なことだけど、
そういう大変に感じる時こそ、
誰かの「お智恵」だけ
拝借すればいいのである。)
(てか、その
先人の智恵を多分に借りながらも
「自分でなんとでもする作業」は、
「トレーニング」にもちゃんとなる。
――それによって
(急には無理でも)徐々に
強くなっていくものだな、
という実感もまたある。)


(少なくとも私はそれで
気づけばずいぶん強くなりました。笑)


誰かが自分の代わりに、
自分の分の希望を持ってくれて
……なんてことは、
成立しないというか、
それはもはや
変質した「別モノ」で。

本人が望んで
本人が持つからこそ
「希望」なのであり、
で、
それが何もないというのは、
何だかせっかく
「考える雑草」――
「ヒト」として生まれてきたのに
もったいない気がする。

(ま、他の生命体には、
他の生命体なりのそれぞれ
「希望に該当するもの」のカタチが
あるのかもしれませんけど。)

(で、また、
希望を持とうが持つまいが、
そんなのは
その「ヒト」それぞれの自由だとも
思うけれど。)

(でも、私は、)
望む何かが既にそこにあるなら、
わざわざ「希望」を捨てる意味あるの?
――せっかく自分の中から
「望む」いや
「本当は望んでいるのだ、望みたい」
という形で
湧き出てきたその「燃料」、
大事にしなくていいの?
捨てちゃうのもったいなくない??


と、ただただ思うわけです。

「叶う・叶わない」
それだけに価値をおくと、
叶わなかった場合に
「望んだところで
全部無駄だった!廃棄!」と
感じてしまうけど。

――いやいやいやいや、
そうじゃないから、
生きる燃料になるのは、
「叶えようとする過程」
そっちのほうだから!


だって、
今までを振り返っても、
実際そうだったじゃない?
(と、自分の実感としてそう思う。)

そして、
我々生命体が乗っかっている
この「時間」とは、
即ち
「過程」のことじゃないですか?

ともまた、
このごろの私は
頓に感じるようになりました。

時間は動いているのに、
あるいは
「何かしらを望む」
自分の心のほうは動きたがっているのに、
「再び失望する可能性があるから」と
自分の思考回路の中のその
「予測」「理屈」だけで動かないでいるのは、
何というか
「風通し」もまた悪いのである。

――「心」と
「狭い頭の中の予測や理屈」とが
逆方向に押し合って
延々といつまでも
「不満という名の厚い雨雲」つまり
「停滞前線」作っていても
しょーもなくない?
(ま、偶になら仕方ないにしても。
そういう天気の時もそりゃああるもんね。)
(でも、「いつまでも続く雨」じゃ
フツーにそれはそれで
シンドくありませんか?)

そもそも、
「希望」って、
失わなければいいんでしょ?
「これがダメなら
この先、この次、
どうやり方を変えていきます?」
って、
それだけでいいんじゃないの?

「いや、燃料切れで」
(よくあることです)
となったら、
その時はしばらく止まって、
休んで、
ただただ
エネルギー溜め直せばいいだけ。
――そのイメージでいればいいだけ。
(もちろん、
大量のエネルギーを貯め直す人は
長く休みをとることがあってもいい。)

それだけのことなのに、
いちいち
(不運だけならまだしも)
他者からの理不尽やら悪意やらに
自尊心ぶっ壊されたり
心ごと折れたり挫けたりしていたら、
ますます
「相手の思うツボ」
なのである。

何なら究極は
(ハイ、ですから
「極端なことを言っている」
その自覚アリです。笑)
「期待はしないが希望は捨てない」
ということなのかもしれない。

――ヘタに「期待」持って
それを失って
結果動けなくなるくらいなら、
初めから所謂「基本ダメもと」精神で
いるほうがいいのかもしれない。

「この世の半分は、元から期待外れ」

それでいいじゃないですか。

「それでも」である。

「期待はせず」とも、
「信じて動きはする」こと。


――「動き出す」「動き続ける」
そのこと自体に、
ヒトとして「生き物」をしていく、
その意味がある。

と、私は思うので。