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「信じる」ということ

「こちら側からお開けください」って書いてあるわけだし。

今度の卵パックこそ、 「ミシン目」の側からきれいにプリプリッと開けられるに違いない!
……っていうその期待は、裏切られるためにあるのだわ。
(ミシン目じゃない側からのほうがいつも開けやすい。)
(私が悪いのかしら?笑)

違います!
私は基本的に、人を信じようと決めているから!
だから納豆のタレの袋だって「手で切れます」 というその言葉を信じただけ!

――いつもいつも、それだけのことよ。
ねえ、可笑しいでしょう?
笑っちゃうよね?

――笑ってよッ!

騙されたんじゃない!
騙されてあげたのよッ!

……。

……とはいえ。

基本的に私は、何ぁ~んも、「信じていない」。
(何ぃ~っ?)(ここまでの流れは一体??)

「手で切れます」とかは、比較的信じるさ、信じるとも。
(そうなの?)

でも、「運命」とか「天命」とかそういうのは、「手で切れるか切れないか」以上に、よくわからない。
(自分如きがわかっちゃいけない気もするし。)


人生って、いつでも誰でも「海の藻屑」と消えてもおかしくないものを、偶々、「人間」「生物」という形の舟に「今のところまだ」乗って、海の上を流れ漂わさせてもらっているだけ……のように個人的には感じる。

その中で、行ってみたい島が見えて、オールを持って自分なりに漕いでみたりはするけれど、でもまあ、潮の流れが強ければ辿り着けないこともあるし、でも元からそういうもので。

潮の流れを「読もうとする」まではあっても、潮の流れごと手前どもの都合で「変えてしまえ」みたいな捉え方考え方は(自分としては個人的に)何だかできなくて、多分、最近の自分は「乗っている潮の流れに流されるべくして正しく流されたい」という感じなんだと思う。(ま、オールを持って、「転覆」はしないように、多少調整くらいはするけどね、という感じ。)

「人生全体」を、デザインとかコントロールとかは、何か、「自分ごときにはできない」感がある。
(それらについて、私にできるのはせいぜい「日々の生活」止まりかな?と。――あくまで「自分の場合は」だけど。)


いずれにしたって。

形ある私の所有物はもちろん、私の身体、私の「持ち時間」、 いずれも、すべてが完全にいつかは失われて無くなってしまうものばかりだ。

ならば「私の持っているもの」は全て 「私のもの」ではないのだと思えれば、「奪われる」ものはないので、むしろ何も恐れることなく、かえって清々しい気も。
(「借りもの」なら、いちいち大事にするかも?だし。笑)

生きていく上での不安や恐れって、命とか、今の生活とか、将来への夢とか希望とか、その他諸々、「失う」ことから来るのが一番大きいのか?なんて思ったのだ。
でも、最期にはすべてこの手の中から失わていくのが自然なのだ。
――ならばすべてを「借りもの」だと認識すれば、少なくとも「失う」ことへの不安や恐れは、少しくらいは減るのでは?と。


念のため付け足します。

「全ては借り物」だと思うことで、かえって不安になる人は、もちろん別にそう思わないほうがいい。
「私個人の場合は」気分的に調子良くなるってだけの話。

「全ては今偶々自分の手元にきているだけ」 と考えたほうが、抱えていると重たい「執着心」みたいなものも少なくなるし、何より「今」を大切にするから。

「執着」って、ほうっておくと益々「強粘着」で、くっついちゃってくっついちゃって、自分自身が「〇〇ホイホイ」(←今でもこれ売っているのかな?もしかすると若い人は知らないか。笑)にかかったみたいで動きもままならない。
「(その対象に)食らいついて離れないでいくぞ!」ってのが必要な時には良いんだけど、そういう時って割と稀かも?


と、個人的に思った、という話でした!