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「死ねばいいのに」という呪詛もアリなのかな?と

(これは記事にしようかずっと迷っていたことだけど、ちょっと書いてみようと思います。)

繰り返し書いてゴメンナサイだが、かつて遭遇した職場上司からのパワハラの件。
――そう、こちらnoteでは、これまで2、3回くらいか?その件を題材に記事を書いた気がする。
だが、「こういう話」って、実生活の中では、つまり実際の口頭での言葉のやりとりの中では、誰かに打ち明けにくかったりもするのだ。

なかなかどうして、スッキリ整理して話さないと、ダラダラした暗い「ただの愚痴」になりがちだし、あと、性格的に、「で、結論は?」「目的をはっきりさせようよ、こんな話、何のために話しているの?」みたいなことを、自分で自分に突きつけてしまう。
だから、そもそも「この類の話」って、他者に「会話の中では」、自分はなかなか話しにくいのだ。

でも――ついつい、その時だけは、その人に話してしまったのである。

その話を聞いてくれた人は、このパワハラの件とは全く無関係な場所に属している人だということもまずあった。(これは大事。)
あとは、その話した相手の人は、元々、常日頃から他者への共感性が高く(つまり「やさしい人」で)、且つ正義感の強い人だったから、私はどこかで、「この人なら、きっと一緒に怒ってくれたり悔しがってくれるだろう」というふうに予測をしていたと思う。
――うん、自分の胸に手を当てて思い起こすと、私はやはりそれを少なからず「期待」していたような気がする。


で、一通り、私が受けた「パワハラ話」を聞いて。

その人がボソッと言ってくれた一言が、今でも忘れられないのだ。

「ソイツ、死ねばいいのにね。」


――こういうセリフについて、スピリチュアル界隈からは、いろいろ批判が飛んできそうな気もする。

「そういうことは口にしてはいけない」
(「無関係な誰かを巻き込む状況を作ってはいけない」「口にさせてもいけない」もまたこれには含まれるだろう。)
そして
「呪う言葉は必ず言った人に跳ね返ってくる」
等々。


まず先に言っておくべきことがある。

ここでのその人の「死ねばいいのに」の発言について、私は、聞いた「瞬間」、「即座に」、激しく頷いていた。
「即決で」、100%感謝していた。
そこに一分の迷いもなかった。
だから、「呪い返し」が返ってくる先は、パワハラ被害の「当事者である私」であるべきだ。(私自身が「死ね」とは「実際の言葉には」これまで一度もしていなくてもだ。)


でもね。

それでも、その人のその言葉を聞いたその時にね。

胸が、スッと、したんだよね。
スーーーッと、胸につかえていたものが取れて。

風が吹いた感じがした。――これ、ホントにしたんだよね。


ずっと、誰かに、自分の中に既にどうしようもなく発生してしまった「呪う気持ち」について、「共感」更には「同意」してもらいたかったんだと思う。

そして、その人のその言葉を聞いた時以降、自分の中に溜まって抱え続けていた「黒いドロドロしたもの」もまた、結構薄まったところがあるんですよ、実際ね。


ずっと人には話せなかったこのことを、私は、「話してよかった」と、今でも思っている。
これがきっかけで、その後の「自分の中の風向き」が、明らかに変わったからだ。
――いや、何なら、呪いの言葉だろうとなんだろうと、もし自分の心の中の風向きが良いほうに変わっていくのであるならば、悪いことだって(その相手に絶対的に聞こえない位置からなら)「自分でも」(わざわざ誰かに言わせなくても)発したっていいんじゃない?とすら、私は思いましたよ、正直ね。


私は、その「ソイツ、死ねばいいのにね。」というその人の言葉には、多分この先も、永遠に、感謝し続けると思う。
(だからやはり「呪い返し」のその矛先は、私に向かうべきだ。――それでもいい、「呪い返されたとしてもお釣りがくる」とも思っている。)

うん、まあ、
確かにこれは「人を呪う」セリフかもしれないけどさ。

しかし、どうしても、私にとってこの言葉は、「悪い言葉」だとは思えないのだ。
「思えるわけがない」感じがするのだ。