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人間、理由が欲しい。

3月も中旬です。

今日、東京では桜の開花宣言がなされました。これまでの3月16日を更新し、統計史上最も早い開花日だったそうです。

他方、今日の東京は冬のような寒さ。雪も降っている有り様で(いわゆる「ベタ雪」というやつですが)、開花宣言の日に雪が降り、さらに今日はホワイトデーという、ちょっと不思議な一日です。

ところで、どうして日本ではお花見をするのでしょうか。
あ、ご安心ください。今からお花見の起源について講釈を垂れようなんてつもりはございませんので。もしかしたらもう少しつまらん話かもしれません。悪しからず。

さて、一説によると江戸時代くらいには花見は庶民の間で広まっていたそうなのですが、「花より団子」などという言葉があるように、花見をしている人がほんとうに「花を見る」ということだけを目的にしている様は、あまり見たことがありません。

花見の席で集団が集中して「花を見」たり、桜の木に集中しながら真面目な顔をして「あぁ、あの花は色味がちょっと濃いねぇ」とか会話をしている図というのも、それはそれで面白そうですが(そういう人たち、居たらごめんなさい)。

どちらかというと、酒を飲んだり遊んだりしている時に「やっぱり桜はきれいだなぁ」なんて、ちょっとした気づきのように、改めて再確認するようにするくらいの気がします。「ほんとう」は花が主役のはずなのに。
花がまだ咲いていない時のお花見というのはいわずもがな、さらに不思議な行為です。

さて、なぜ花見をするのかということを考えたときに、人間というのはだれしも、何かをするのに「理由が欲しい」という側面を持っているからというのが理由のひとつなのでは、と私は思っています。

花が咲いたらお花見。雪が降ったら雪遊びに雪見酒。ホワイトデーにはバレンタインデーのお返しを。

これらの行為には別に合理的な理由があるわけではありませんが、日本の暮らしの中に多少なりとも息づいている習慣です。

習慣とは不思議なもので、当初は目的がはっきりしていたものも、定着していくことによって、目的と行為が入れ替わっていることが往々にして見受けられます。

例えばお花見もそうで、今でも桜がきれいだからお花見をする、という部分ももちろんありますが、逆に、お花見をすることによって桜に意味を見出している=「特定の行為(お花見)をすることによって季節(桜のきれいさ、春)を感じる」という部分も少なくない気もしています。花見にかこつけて酒を飲む、みたいなイメージ。

そしてみんなでお花見をしてワイワイすることによってお花見が楽しかったものとして記憶される、この楽しさ(にぎやかさや非日常感)は春やお花見の「桜がきれい」というイメージに少なからず影響を与えているように思います。

別の行事で言えば、最近の都心のハロウィンというのはそういう向きがあるのではないでしょうか。日本の中で意味があって行為がなされるというより、その行為によって何かが意味づけられていく感じを如実に表しているように思えます。

「何かの理由」があって行為を行うのではなく、行為を行う(例えば酒を飲みたい、にぎやかに騒ぎたいとか)ための理由が欲しいというのは一見順序が逆なようにも思えますが、いやはやしかし、人間というのは自分で何かを決定できていることばかりではなく、そういう風に行為を文脈づけることによって「自分を納得させて」暮らしている様な気がします。別にバレンタインデーやホワイトデーがなくたって感謝や思いは伝えられますから。

でも、ひとつひとつのことについて意味を徹底的に考えて必要性を取捨選択していく暮らしというのは、ちょっと息が詰まりますから、習慣とか恒例行事、慣習を作って、暮らしを再確認する感じ。
現代では、そういう役割を行事は果たしているのではないでしょうか。

これはなにも行事の話だけではなくて、日々の暮らしのサイズでいえば、ルーティーンがそれにあたるものでしょう。
よく考えると「ルーティーンだから」というのは何の理由にもなりませんが、それによって暮らしにゆとりや安定感が出たり、スポーツのパフォーマンスが上がったりするというのは不思議なものです。


意味があるのかないのかはともかく、「自分を納得させて暮らしていくための理由」、物事や事象に対していわば「言い訳をできる(理由を生み出す)」という意味で、人間は特殊な生き物なのかもしれません。

ということで私も雪見酒に花見酒、といきたいのですが、年度末でバタバタしているので、残念ながらちょっとお預けの模様です。

(ひとりでにコラム第5回・了)

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