見出し画像

現実の白昼夢

ここに来る途中で写真を撮るのに夢中になりすぎて、一回、力を使い果たした今です。
雨粒が、キラキラしていたんです。同じところを何度も撮りました。
ぼんやりしています。

前回は、粒とつながり線の活性化にワッサーとなった経験から、「目の前の状況をどのように捉え直すか」について説明を試みた。

0ポイントを捉えきれていないわたしにとって、自分を中心に世界と関係することはけっこうむずかしい。
目の前の人や物事の刺激の素が、わたしの中で粒とつながり線になっていく。星座になる前に次の粒とつながり線がわき上がってくる。
天然温泉か。

シン、と鎮まった湖とか、憧れるわね。
コンコンと湧き続ける温泉とか、大雨の後の激流とか、そんな感じですもん、わたしがワッサーってなってるの。
集団の中にいるときはそうなりやすい。
ちょっと、待って、って感じになりません?
これがコンロールできるのならこんなにアップアップしてないと思うんです。

わたしが「もしいま縄文時代だったとしたら」って想定してみているのは、気を紛らわす、みたいなこととちょっ違って、
どんな環境に自分は立っているか?っていうことをクッキリ、クリアにさせる効果があるのかもしれない。


ワッサーとなっている状況において
わたしは目の前の現実が唯一の現実のように思っている。
それまでの粒とつながり線の軌跡、有機的自律運動のはたらきが今に現れているから。
集団の中で自分の0ポイントを見失い続けてきたにも関わらず、わたしの「今」は、今までの粒とつながり線の軌跡の重なりによって立ち現れている。

(そして同時に、粒とつながり線の活性化、星座未満に溺れている身体の記憶なのだ)

集団の輪っかの中に居ると、なにか、「直線的に物事を進めていく」ような意識が無意識に立ち上がる。
正解に向かわなければ、というような。
ほんとうには誰もが答えを持っていないのに、大きな答えがあるような。
決まりがあるような。
一定の規定があるような。

その、正解のような、決まりの中のような、一定の規定の中にあるような、そんな中に、居られていないとき、「居よう」とするはたらきが無意識に働いている。
平気でそこに居ることができていないからこそ、「集団の輪っかに馴染んでいるはずの自分」のイメージに意識が向いている感じ。

この、外に、でないと見えないんだ。

この中に居る間は、馴染めていたらそこに居られるし、
居られなければ「居られるはず」を無意識に指向するはたらきが働く。
だから、そこ以外に行けないのだ。


「もしいまが縄文時代だったなら」という想定は、わたしに「自分の0ポイントはどんなだ?」と、問いかけてくる。

目を覚まさせる。
そこに、別の現実が広がる。


わたしは長い間ずっと夢の中にいたのかもしれない。
集団の中に平気で居られないからこそ、「平気で居られる自分を含めた集団」「そこにあるはずの現実」を、白昼に夢見ていたのかもしれない。
白昼夢は現実のようにそこにあるけど、常に悪夢で、覚めなきゃとわたしは常に焦っている。


なんだか、どんどん、ホラーに接近してくる。
ね。

わたしの思っている以上に、わたしの今まではホラーだったのかもしれない。


そういえば、「風船みたいだな」とか、似たようなことを人から言われていた。
お前はフワフワしている、と。
あんなに一生懸命、現実に馴染もうとしていたのに、そう言われるたびに目の前が真っ暗になった。
これ以上、どうしたらいいんだ、という気持ちになった。

その現実の中でのわたしのがんばりには、限界があったのだ。
その中で居られるようにがんばれば、わたしにとっての非現実が広がっていく。非現実の中で長く生きることはできない。


次回は、ホラー映画の話に続いていくのだろうか。
どうだろうか。


※ここまでに出てきた言葉をまとめています。
ひとりよがりな、主観の言葉です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?