粒とつながり線に溺れたら
前回は「集団の中で可能性に溢れかえる現象」を体験を交えて説明を試みた。
保育園の時点から50年ほど過ぎた今、今も集団に居られないかというと、比べれば随分ましになっている。
それは、「集団の輪っか」を無意識にとらえているからだと思う。
擬態も得意になった。
カメレオンのように、その場での集団の輪っかの色に勝手に染まっていくイメージ。
レオレオニの絵本に同じような現象が表現されていましたね。
※擬態については、「無意識」以外に、「わざわざ」取り入れた方法もある。そのうち説明することもあるかもしれない。
集団に居られるようになって良かった反面、しんどいことにもなる。集団の輪っかに意識が向いていると、いつまで経ってもわたしという個体の0ポイントが現れてこないのだ。
集団の輪っかに沿った星座ばかり拾っていたら、そう成らない運動は邪魔になる。
有機的自律運動の阻害が起きている。
有機的自律運動は、星座になることが必然な法則のような気がしている(わたし主観)。
ある時あるタイミングで、星座は成形をみて、またほどけてゆく。
その間にも「今」と「過去」の粒とつながり線は絶え間なく混ざり込んでくる。
混ざりながら有機的自律運動のはたらきの中で「拡散」と「収れん」が起き続けている。
そのタイミングタイミングで、星座を拾い合うことができたなら、「個体」は0ポイントに折り合える。
「拾い合う」というとき、
・「わたし」と、有機体である「個体の自分」との間
・「自然」と、「個体」との間
・「個体」と「個体」との間
・「個体」と「集団」との間
など、いろいろなフェーズがあると思われる。
またこれらが同時にいくつも起きている。
時に、
例えば渋谷の井の頭線の改札を出たところなど、わたしは前に進めなくなる。
そこにある個体(人)の全部から一気に刺激の素がやってくる、その渦に巻き込まれる感じ。
意識は応答するつもりがなくても、体は応答に迫られる。
粒とつながり線がワッサーとなって活性化する感じ。
やり過ごすためには逃げる。時間をずらして、人が減ってから動いたり、遠回りだが人の少ない階段で上に上がったり。
そういう自分を「情けない」と感じることもあった。
すぐに疲れたり、目的地に行くのに時間がかかったり、そのためにすごく早く家を出て時間の帳尻を合わせたり。
または「無」になったように気配を消そうとしてみたり。
今は、こう思うようにしている。
「もし、縄文時代だったら」
もし、ここがいま、縄文時代だったら
こんなに人はいないだろう。
もし、ここがいま、縄文時代だったら
人の目的がこんなに見えないことはないだろう。
もし、ここがいま、縄文時代だったら
人がいれば「いないかのように」通り過ぎることはできないだろう。
もし、ここがいま、縄文時代だったら
空があり、木があり、水があり、陽があり、
なにもかもが等価で人間だけが特権的ではないだろう。
縄文時代に戻れるはずはないことはわかっている。
仮定してみるだけだ。
もしここがいま縄文時代だったら、こんなに人がいたら「わあっ」ってなるだろう。心臓がバクバクして生命の危機に迫られるだろう。逃げなきゃってなるだろうし、死んだふりをするかもしれない。耳をふさいで洞穴に逃げ込むかもしれない。
そうだ、わたしはちゃんとそのような反応をしているだけだ。
そう想像できるだけ、でずいぶん、気持ちが楽になった。
※ここまで出てきた言葉はここにまとめています。
ひとりよがりな、主観の言葉です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?