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セクシュアリティの揺らぎ、迷い

はじめに、これははてブからの移植部分が多いことを明記しておく。

わたしはずっと人を好きになったことがなかった。成人、二十歳が近づくそのときまで。だから、アロマンティック・アセクシュアルと自認していた。そのほうが生きやすかったから。セクシュアリティがあるという自己紹介でわたしは自分の居場所を作り、その肩書きはわたしの自己防衛手段、言い訳の理由、拠りどころとなった。

わたしはそう名乗っていたわたしを「人を好きにならないアロマンティックだった頃のわたし」として自分史に刻みたいと思う。Aロマだったことは嘘ではないのだと。

過去にアロマンティック・アセクシュアルと名乗っていたが、今はそうではない。ひとつの例として、悪い言い方ではなく変わったとしてもAロマであったという過去はあるんだよというモデルとして、ここにひとつ、記しておく。

だから、そう、だから、もしAセクを名乗るにあたって変わってはいけない、セクシュアリティは固定されていなければならないと思っている人がいるのなら、そうではないと言いたい。仮に未来のあなたが人を好きになったとしても、今のあなたがAセクであるということは変わりないのだと。名乗ることは誰にも邪魔できないのだと。


そして、ポリアモリーだった頃のわたしもいる。
ポリアモリーとは、一度に複数の人を好きになる、というセクシュアリティ。これはAロマよりもさらに理解されづらい、と肌で感じた。
今は違うけれどまた変わるかもしれないし、その頃のわたしも肯定したい。

どのセクシュアリティであってもそれは個性であるし、否定されるものではない。それだけは確固として言える。
ひとつのモデルとして、セクシュアリティが揺らぎ続ける、変わり続けるわたしとしてわたしはここにいようと思う。
価値観は年齢や環境とともに変わって当然だし、いまパンセクとして存在するわたしも変わるかもしれない。ずっとそのままで生きなければならないわけではない。他人だけでなく、過去の自分も否定されるべきでない。わたしはそう思う。

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