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備忘録的なもの「自己肯定感」

自己肯定感の話。
うちの嫁さんとアンチエイジングについてあ〜だこ〜だと会話をしていた時に(因みに俺のエントロピーとアンチエイジングの話はサラッとスルーされた)、嫁さんに「でも、何だかんだで琴ぴっぴ(←俺のこと)は自己肯定感が私より高いんよ。自己肯定感の土台みたいなものが生まれながらにしてきっとあるんじゃろうと思う。」みたいなことを言われた。
確かにそ〜なのだ。

うちの嫁さんは俺だけでなく色々な人から「美人」「キレイ」「可愛い」などとよく言われるのだが(←軽くのろけ)嫁さん本人の自己肯定感はなかなかに低い。
一方の俺は別にイケメンでもなく性格もわりと悪いアホでエロいそこら辺にいる色メガネをかけた怪しい普通〜のオジサンなのだが無駄に自己肯定感が高いのだ。
いやいや、俺にだってガラスのよ〜な繊細な心を持った10代の頃もあったのだ。でも、それでも何だかんだで「自分大好き💖」みたいな気持ちは常にあったよ〜な気がする。
一方、うちの嫁さんは昔からコンプレックスだの劣等感だので常に悩んでいるのだと本人が言うのだ。
で、「あ、それなら俺もあったで。」と俺が言うと、嫁さんは冒頭で書いた「でも、何だかんだで琴ぴっぴは自己肯定感が私より高いんよ。自己肯定感の土台みたいなものが生まれながらにしてきっとあるんじゃろうと思う。」とゆ〜発言をしてきたのだ。
そう。なるほど、そ〜なのだ。俺はきっと嫁さんよりも自己肯定感が高いのだ。そして、自己肯定感の土台みたいなものはきっと個人差があるのだろ〜と思うのだ。

最近の脳科学なんかでは、自己肯定感ってのは生まれつきのものである、先天的なものであるとゆ〜ことが言われていたりする。
勿論、後天的に学習や訓練によって育まれる部分もある。自己肯定感を育むのには、その当人の置かれた周囲の環境ってのは非常〜にめちゃめちゃ大事ではあるのだ。脳の前頭前野の成長に伴い自己肯定感も育まれていくわけではあるのだし。
だが、生まれ持って備わっている自己を肯定するスキルってのは当然に個人差があるのだ。ちょっと別のスキルで例えるなら、俺がどんなに小さい頃から努力をしたところで世界最速の男にはなれないわけで、生まれ持った運動能力には個人差ってもんがある。で、同じよ〜に生まれ持った自己を肯定する能力にも個人差ってものはあるのだ。
(ところで、ちょっと自己肯定感からは少々離れるのだが、日本人は欧米人に比べて遺伝的にセロトニンの分泌量が少ない為に、ものごとを楽観的に考えることがど〜やら苦手だとか。
また、日本列島は古来より災害が多いところであり、また、弥生時代以降は稲作で食料の安定供給を行っていたので、個人主義のよ〜な人間よりも集団に己を合わせる人間の方が環境適応や生存戦略の上で有利だったとか何とか。なので、日本列島におけるサピエンスの進化の過程では、「自分が!自分が!」と前へ前へと出る人間よりも周りの様子をうかがいながら「個」を調節していく人間の方がより自然選択されてきたのだろ〜とのことだ。)

それにしても、ま〜なるほど、自己肯定感ってのは生まれ持っての遺伝的なものが影響していることはど〜やら間違いはなさそ〜なのである。
で、そ〜なってくると、先天的にしっかりとした自己肯定感の土台がある人間が、その土台のない人間に対して「自己肯定感をもっと育むべき」なんて言ってしまうのは非常〜に酷なのではなかろ〜かと思った。
なぜならば、もともとの運動能力に差があるよ〜に、もともとの自己を肯定する能力にも差はあるのだろ〜から。
なので自己肯定感を育むに為のトレーニングってのは当然のことながら人それぞれに合ったものでないとダメなのだろ〜と思った。自己肯定感の高い人間のトークはそれが低い人間にとってはキツいことがあるのだろ〜と思う。そんなことを思ったのである。

因みにこの記事のヘッダー画像はクリオネさんが想像で描いてくれた俺の似顔絵。クリオネさんありがとうございます!

ええっ! ホント〜ですか。 非常〜に嬉しいです。