「奇跡のレンコン」をとことんまで追求する | レンコン農家・株式会社 蓮 岸川和彦さん
「いま所有しているレンコンを育てる田んぼは全部で7つありますね。広さに換算すると”2町”になります」
レンコン農家であり、株式会社蓮(れん)代表 岸川和彦(きしかわかずひこ)さんは、ゆっくりと丁寧に答えてくれた。
2町?
”町”とは農業の専門単位で、主に田んぼの面積の広さを示す。
普段の生活では聞き慣れない単位だけに、広さのイメージがピンとこない。
「だいたい、東京ドーム2個分相当の広さです」
ちょっと戸惑ったこちらの様子をみて、岸川さんが優しく助け船を出してくれた。
東京ドーム2個分!!
なんという広さだ。
岸川さんは続けて、こう言った。
「ちなみに、坪数でいうと3,000坪ほどですかね」
計り知れない広さだ。
岸川さんの生産拠点は、佐賀県白石町。
全国でも名の通った「佐賀白石レンコン」の産地でもある。
そんな名産地で、東京ドーム2個分規模の生産地があるからには、代々続いているレンコン農家か、と思いきや実はそうではない。
2町規模のレンコン田は、たった一人で、しかもわずか5年でゼロから広げたというから驚きだ。
学校で農業を学んだわけでもなく、すべて独学。味や品質を決定づける栽培方法は、独自に培ってきた考えとやり方で成り立っている。
そんな岸川さんが育てるレンコンは、「甘い」と定評がある。
たった一人で田んぼを2町まで成長させたのも、市場の定評が土台にあるからだ。
岸川さんは、2023年に入り株式会社蓮という法人を設立した。
「自分たちで作ったレンコンの卸売や直接販売や、その他にも都市部の飲食店や企業と地元の農家さんを橋渡しするためにも法人化しました」
そう語る岸川さん。
農家のほとんどは個人だ。しかし、卸売や販売先には法人が多く、これらの法人は個人と契約を好まないことが多い。そのための橋渡しを(株)蓮が担う。レンコンの生産面だけでなく、流通、販売の分野というビジネスや地域創生の側面も積極的に視野に入れ、活動の裾野をも広げようとしている。
「たった一人で栽培をやり始めましたが、今となっては佐賀白石レンコンをもっと全国に普及させたいと思っています。白石には他にも名産品があるので、地元全体で盛り上がっていきたいですよね」
そこには、自らの夢、そして地元への想いがしっかりと詰まっていた。
ここに至るまで、さまざまな逆境や試行錯誤があった。加えていえば、実は岸川さんには身体的なハンディキャップもある。しかし、どんな状況でも自分に向き合い、そこで得た気づきと、そのハンディキャップすらをもむしろ強みとして乗り越え、レンコン事業をさらに拡大を続けようとしている。
農業なんてまったく無縁
岸川さんがレンコン栽培に出会ったのは27歳のとき。それまで、レンコンの産地に生まれ育ったが、レンコンも農業もまったく無縁で過ごしてきた。
高校を卒業し、最初に就職したのは造船会社だった。そこで、船のエンジンパーツを製造する部門に配属される。
「でもね、入社した前年に起こったリーマン・ショックの影響で、就職したものの全然仕事がなかったんですよ」
仕事もない勤務時間をただ掃除するばかりの日々。毎日が定時帰り。
そもそも支給される給料は、残業があってこそ成り立つような給与体系でもあった。
「とても生活が成り立つような収入ではありませんでした。だから、副業でアルバイトをするしかなかったですね」
あまりにも地元での仕事がなさすぎることから、会社の指示で大型自動車製造会社の請負社員として東京へ出向いたこともあった。
1年半ほどして、佐賀の本社に呼び戻されたが、それも「人が減りすぎた」という理由だった。造船の仕事量が増えて忙しくなったわけではなかった。
「さすがに、いつまでもいるところではないと思いました」
岸川さんは見切りをつけ、この会社を後にする。
次に勤めたのは地元のお弁当屋さんだった。
岸川さんは、次の転職先として「意図してお弁当屋に選んだ」という。
「ここで店長になろうと思ったからです」
その理由を語る。
「この時、いずれは起業し経営者になろうと考えていたんです。店長ともなれば事業運営に携わることもできるだろうし、経営の知識を得られるな、と思ったんです」
小さくてもいいから、まずは経営の実践を経験する。そう決めての転職でもあった。
「何になりたいか、何をするか、具体的なことはこのときイメージはできていませんでした。ただ、いずれ起業しよう、という思いは実はずっと昔から持っていました。ちょうどこのタイミングで起業することを目指してみよう、と思ったんです」
造船会社に見切りをつけたことで、これまでにずっと抱いてた起業への「想い」を実現するため、その行動に出た。
何で起業できるかはわからない。でも、それがわからないから行動しない、では何も生まれない。動けば何かにつながる確率は上がる。まさか、それが農家になるとは、夢にも思っていなかったが。
密かに思い続けていた起業への「想い」。
いつから、そのように起業への想いを馳せるようになったのか。
「中学生時代にまでさかのぼりますね」
岸川さんは当時のことを振り返る。
学校へ行く意味が見出せなかった中学時代
「中学生時代は、実を言うとほとんど学校へ行ってないんですよ」
中学時代を語るにあたり、岸川さんはいきなりこう言った。
理由があった。
「中学2年生の時、母親が蜘蛛膜下出血で倒れたんです」
思いもよらない突然の出来事だ。
「自宅がほぼ山頂に近いところにあったので、歩いての通学だと2時間ぐらいかかるんです。だから、部活もやめて母親の看病や家のことなどに専念するようになりました」
通学には公共のバスを使っていたが、バスに乗り遅れると歩くしか無くなる。そのようなことが起こるを家のことが滞る。他の学校行事や部活を控え、できるだけ速やかに帰宅するしかない。
「部活とかやりたくでもできない状態なのに、その時の先生たちの対応がなんかよそよそしいかったんですよ」
状況としては止むを得ないはずなのに、なぜか学校の先生たちの態度に違和感があった。
続けられるのであれば部活を続けたいと思っているぐらいでもあるのに、学校側はどうもそんな状況や思いを感じ取ってくれていうる気配がない。
先生たちの態度をよくよく観察してみると、どうも生徒に対する対応が平等ではないことに気がつく。表面的なところだけを見て、生徒への対応を変えているように見えて仕方がなかった。
「周りの生徒からも、いじめられたこともありました」と振り返る。
「そんなこともあって、とにかく中学時代は居心地が悪かったです。自分の居場所というものがない、というか無視されていたというか。もっとも、そのような雰囲気の中に自分がいたいとも思っていませんでしたけどね」
表面的なところでしか評価されないような環境にいたところで、果たしてそれがなんの意味があるのか?
学校へ行く意味を、岸川さんの中で見出すことができなかった。
起業の起源 〜独自の価値観〜
「ただ、このままでいいのかな、ということもうっすら感じてはいました」
母親の看病が続くと、学校と家庭との両立も何かと大変だ。しかし、だからといって、この現状は誰も何も変えてくれるわけがない。
「いくら周りに評価されなかったとしても、何もしなかったら現状は何も変わらない。自分から変えていかないと環境は何も変わらない、と思うようになったんです」
そして、もうひとつ正直な気持ちを岸川さんは打ち明ける。
それは、学校で受けた冷たい態度に対する思いだ。
「やはり悔しい気持ちはありました。だから、『いつか見返してやる』という思いはありましたよ。でも、それは相手にやられたことをやり返すとか、そういうことではなく、『自分が成長して、もっと上を目指して驚かしてやる』という感覚でしょうか」
相手を傷つけるようなことではなく、自分が成長して自らのポジションを相手より上げていけばいい、そういう考えだ。
「この上へ行くこと、成長していることを示す具体的な形が『起業すること』だと、このときに思ったんです」
とにかく自分を成長させていくこと。
そのひとつのカタチとして「起業」を目指そう。
自身の目標、価値観として岸川少年の心に刻まれた。
「だから、地元の高校へ進学してからは手のひらを返したように真面目に勉強しましたね」と岸川さんは笑った。
「高校ではありがたいことに、先生にも恵まれるという幸運もありました。自分にきちんと向き合ってくれる先生ばかりだったので。それがとても心強くも感じました」
中学生時代の苦い経験は、まさにこの気づきを得るため貴重な前振りだった。苦しいながらも、自分に向き合いつつ自分のあり方を形作っていった。
ハンディキャップをも武器にする
「数字で物事を考えるのが好きですね。そもそも世の中って、すべて数値で成り立っているだろうな、と僕は思っています」
いろんな事象を数値に置き換えて考えてみるほうが、自分としてはわかりやい、という岸川さん。そして、なぜ数字が得意となったのか、そのことを打ち明けてくれた。
「実は、物心ついたときから左耳が聞こえません。今でもそうです。だから、言葉が聞き取りづらく、発語もあまり得意ではありません」
今でもカ行とタ行の発音は難しいと語る岸川さん。
「だから物事を言葉や文字で理解するよりも、数字で捉える感覚が身についていったよう思います」
身の回りのものを意識して見渡すと、ほとんどものが数字や数値で十分に理解できると小さい頃から思っていたという。こうしたことから、ほとんどの物事を俯瞰的、客観的に見ることが自然体であり、とくに意識をしたことがなかった。
この自分の特徴をあらためて認識したのは、弁当屋さんで働いているときだったという。
「弁当のおかずを作っている最中に、よく電話注文が入ってくるんです。そんなとき、おかずを作る手を休めることなく、どれだけの注文を受けても、メモを取ることなく注文数だけがスルスルと記憶にとどまることに気がついたんです。なぜか数字だけは意識せずとも頭の中に自然と残ったんです」
これには、弁当屋さんのオーナーも驚き、この働きぶりが認められ、結果として目標にしていた店長に抜擢された。
店長となる目標を、自らのハンディキャップから生まれた感覚を武器にして見事に獲得。そこで目論見通りに経営に関する知識、知見を身につけていく。数字で実態を把握、見通していく、まさに岸川さんがこれまでにも得意としていたものの見方に、さらに専門的な知識が加わることでより磨きがかかっていった。
お手伝いから始まったレンコン栽培
「レンコンの種付けを手伝ってほしい」
知人にそう声をかけられたのが27歳だった。このとき、弁当屋さんで店長として働き出した頃でもあった。
「手が足りなから手伝って、と言われて、軽い気持ちで種付けを手伝ったのが最初です」
レンコンの種付けは、毎年3月ごろから始まる。
「この時は、農業についても体験しておけば今後の社会勉強にはなるだろう、といったような軽い気持ちでした」
ところが、これ以後から知り合いからレンコン栽培の作業の手伝う依頼が増えていった。そその中で、レンコン農家の実態、農業のしくみや現状を触れることも多くなった。実情を知れば知るほどにレンコン農家への興味が増えていった。
「やり方によってはレンコン農家は儲かるかもしれない、ということが段々と見えてきたからです」
収穫量がわかれば売上計算もできる。収穫に伴う経費がわかれば、利益がはじき出せる。知り合いの作業を手伝いながら、その情報を着々と得てひとつ結論を導き出した。
その年の12月、岸川さんは弁当屋の店長を辞め、レンコン農家へと転身することを決めた。
レンコンの種付けの手伝いをしてから9ヶ月のことだった。
「『レンコンは儲かる』という感覚に確信が持てたんですよね。そうなると、これはもうぜひ実行してみたいと思ったんです」
もし、間違っていたら、また他のことを探すなり何なりとすればいいだけですから、と付け加えて岸川さんは笑った。
レンコン農家となることを決めた岸川さんは、田んぼが借りられるところを探していく。しかし、なかなかいい条件が見つからない。田んぼ貸すというよりも、買い取って欲しい、というところがほとんどだったからだ。
自分が納得できることを、ただ行動するだけ
「田んぼを買い取ってと言われても、当時はそんなお金持っていないから買い取ることなんて、とてもできませんでした」
そこで岸川さんがとった行動は、今すぐ買うことはできないが5年後に必ず買い取る、ということを条件に出して契約を取り交わした。
「借りようとする田んぼの面積から収穫量がすぐに割り出せたので、売上、利益計算して5年後であれば確実に買い取ることができる資金の目処がついたからです」
この方法で、その後に拡張していく田んぼも契約していった。足元を手堅くしっかりと固めながら、自分の理想に向けて一つずつ積み重ねていく。それが5年で2町もの田んぼを所有するまでに至った。
こうしてレンコン農家としてのビジネス的な側面を持ち前の数値的な感覚で補いながら、レンコンの栽培は「自然栽培に限る」という信条で進んでいく。
レンコンの自然栽培は、地元でも難しいとされてきていた。でも、それをあえて挑戦する。
「農作物って自然のものじゃないですか。だったら人工的な手を加えない自然な方法で育ててあげることが一番美味しいものができるはず、と思っています」
岸川さんが農業に対して、そう「仮説」を立てているという。
「だから、その仮説が正しいかどうか常に検証している感じですね」と笑う岸川さん。
代々地元で培われた栽培方法を参考にすることがあっても、自分の中で納得がいかなければ自分で納得できる方法を探る。
「昔からやっているからとか、検証もせずに効率が悪そうだから、と理由つけて行動しない、というのは成長しないことだと思っています。要領のいいやり方なんてそもそもないと思っているので、検証を繰り返して、実態、本質を自分で見極めていくしかありませんよね」
だから、レンコン以外の農家さんがやっていることだけど、「それいいかも」と思ったことは、とりあえずすぐに自分のレンコンにも当てはめてみる。
「いま鉄分が多そうな田んぼがあるので、それに卵の殻を巻いてみようと思っています。これも他の作物農家さんがやっていることを聞いて、レンコンにも通用するか試してみようと思って」
こうした行動がすべて自分の知見、成長につながる。
状況を変えることは自分が変わることであり、それが成長につながる、という中学生時代での気づきが、ここで見事に実践されている。
「やりたい」ことを繰り返して理想へ近づく
「こうやって表向きには順調そうに見えているかもしれませんが、結構いろんなことやらかしています」
ちょっと照れ笑う。
ここまでに至るには、確かに色々な苦難もあったであろう。ただ、どんなやらかしたことがあっても、それもまたひとつの結果として捉え、向きを変えて次に進む。
「年明けに、さらにまた1面増やすつもりです」
2024年、また新たなレンコン田が増やす。種付け、管理、収穫、販売活動までさらに力が入る。目まぐるしい日々でありながらも、「ここでいいだろう」といって手を止めるつもりなど毛頭ない。
古くからのやり方をただ踏襲することにとらわれることなく、自分が理想とする姿、農業としての自分が思う本質的なあり方を追求している姿がそこに垣間見える。
「自分の追い求めることを、自分が納得できるところまでやり続けるしかないと思っています。それが成長でもありますから」
岸川さんの辞書には、「妥協」や「言い訳」といった言葉がなさそうだ。
「今まではそうだったから、これからもそうだ」といったような思い込みや、現状維持がベストという考えで行動が止まったら、成長なんてあり得ない。
いや、それどころか、社会の変化と相対すれば、成長が衰退していくといっても過言でもない。
岸川さんが放つ言葉の端々に、そんなメッセージが伝わってくる。
「奇跡のレンコン」
岸川さんは、自らを育て上げるレンコンをそう称している。
必ず自分の全精力を注ぎ、妥協をしない自信を持った“作品”を世に送り込むことをコミットメントした言葉だ。
広げているのは畑だけではない。
自分が納得することをひたすら追い求め、成長していこうとする精神が岸川さんの心の中に果てしなく広がっている。
自分が理想と思うことを続けていけば、どんな逆境に直面してもハンディキャップがあったとしても、大きな武器となり得ることを、岸川さんは身をもって伝えてくれている。
Another Story 〜レンコン愛とチャレンジが止まらない〜
生産物には、必ず”ロス”と呼ばれるものが、多かれ少なかれついてくる。
レンコンももれなく同じだ。
「小さいもの、形が崩れたもの、栄養価は変わりません。むしろ、小さいものの方が味も栄養価が高いというものだってあります」
しかし、市場はそれを容易に良しとはしてくれない現状がある。
「これを本当にどうにかしたい!」
廃棄ロスゼロのレンコン田。
事業拡大の一方で、岸川さんは廃棄ゼロの生産農家も目指している。そして、1次産業の新しい”ビジネス”として取り組めることはないか、と動いている。
「そうすることで、地元の佐賀の発展につなげていきたい」
そう思っている。
生まれ育ったもの以上は、どんな形であれ、何かしらの役に立ってほしい。それが、岸川さんのレンコンへに対する愛情だ。
栽培と販売の両輪で、収穫シーズン期には、それこそ2、3時間しか睡眠できない日が何日も続くという。そんな中でも、廃棄ロスも目指し、わずかでも可能性があれば、直接でもオンラインでも人に直接会い、情報を掴みにいく。
岸川さんのレンコン愛は止まらない。
そんな岸川さんだが、2024年に入ってレンコン田を1面を増やそうとしながらも新たな試みようとしている
「実は、山葵(わさび)の栽培にチャレンジしたいんですよね」
山葵といえば、栽培する環境として清流が欠かせない。
「その清流が実家の近くに流れているんです」
中学生時代には、少々不便と感じていた山頂に近い実家の立地条件を活かそうとする発想だ。
この山葵も、もちろん自然栽培を目指している。
レンコンの栽培から販売まで、独自の哲学と愛情とチャレンジ精神で拡張させてきた岸川さん。
佐賀白石レンコンにその名を広げることを目標に、加速度的に拡張させている岸川さん。レンコンへの愛情もさることながら、新たな名産品を生み出そうとするそのチャレンジ精神もとどまることを知らない。
取材・執筆:しろかねはじめ(白銀肇/ことはじめライター)
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