『年の残り』 丸谷才一著 1968年
一昨日、ようやくこちらで封切になった映画『君たちはどう生きるか』を観ることができた。
あんまり感動してそれ以来、口を開けば
「すごかった……」
「ほんとうにすごかった……」
しか出てこない自分の言語能力(の乏しさ)がほとほと嫌になったので、同じく人生で、おそらく同レベルの感動をうけ、未だその位置を維持している、映画とはまるでつながりのない小説の話をしようと思う。
このふたつの類まれなる物語の間に、関係性はまるでない。
たぶん。
タイトルは『年の残り』。
1968年発表の丸谷才一氏の短編。
第59回芥川賞受賞作。
不思議なことに、この作品に関して書かれたNoteの記事はおどろくほど少なく、わずかにあったものにも、ネタバレというか、おそらく作家が、いちばん繊細に、最も抑えた表現で書かれた部分が簡潔に要約されてしまっていたので、ここで参照するのは控えたいと思う。
アマゾンの概要はこちら。
ネタバレもなにも、作品の実際の時間軸では、この最初の一行「六十九歳の病院長が、患者の少年との関係から回想する若き日々の情景」以外のことはほんとうに何も起きないので、はい、あの、その、とくに問題はないのですけれども。
私はこの小説を、30代はじめ、上の娘が生まれて、さあおむつだ、哺乳瓶だ、おしゃぶりだ~!という子育て始まりの時期に読み、老いという世界の気の遠くなるような静謐さ、深遠さ、それでいて奥にふと流れる静脈の鮮血を見たような生々しさに、まるで自分が、すでに人生を一周してきたかのような残像を見た。
当時の私は、生まれたばかりの子ども、その子を育てる自分、そんな自分たちを取り巻く世界の、あらゆる生命の抗いがたい自己中心性や獰猛さに呑みこまれそうに喘いでいたので、読んだあとに薄い刃物ですっと切られるような、大丈夫、もう先はそんなに長くはないんだよ、という読後感に、なぜか安堵したことを覚えている。
年表でみると、この作品を発表した時、1925年生まれの丸谷才一氏はちょうど43歳。たしか、カズオ・イシグロ氏が同じく60代も終わりに近い老執事を描いた名作『日の名残り』を出版したのが、34歳。
扱っている物語のスケールは違えど、二人の作家は、人生の真夏のような年齢に、どのようにしてこの研ぎ澄まされた筆致で『老い』を描くことができたのか。
読み返すたびに感銘が深まる。
たしかに誰にでもおすすめできる作品ではないとは思う。
このことについて話したのも、初めてかもしれない。
それは、人ひとりの人生が織りなす眩しいほどの記憶のさすらい、きらびやかさとエゴ、儚さと理不尽が見事な西陣織りのように織り込まれた裏切りという名の優しい嘘。
こんな短い一遍の小説に、すべてをさらりを収めた丸谷氏は、やはり永遠の憧れと思う。
そもそもなぜ『君たちはどう生きるか』を見て、『年の残り』の話を始めたのだったっけ?
脈略は、ないわけではなくて、奥深くの意識のなかでつながっているのかもしれない。
そうであればいいなと思う。
どちらにしても。
あっちをむいても、こっちをむいても、こんなに素晴らしい物語にあふれた世界でまた今日一日を終えられるということを、つくづく幸せだなあと思う金曜日の夜でした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?