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ヴァーチャル・参拝

最近お知り合いになった神社の神主さんから、『脳内参拝』というすごワザを教えてもらった。
これがもう楽しくて、ちょっとしたマイブームになっている。

小さい頃に両親といった東北旅行途中のドライブインで、「なんでもいいから一冊、すきなマンガを買っていいよ」と言われ、なぜか「舎利弗と目連 ~サーリプッタとモッガラーナ~ 釈迦の十大弟子シリーズ」という凄まじいマンガを選んでしまった私は(舎利弗がすごいイケメンだった)、それ以来、親もびっくりの仏教哲学ガールである。

よってその後の人生、神社・神宮にとにかくご縁が薄く生きてきた。
京都に住んでいたのに、赤い鳥居や狛犬さんの像もなんとなく怖くてあまり訪れていないし、伏見稲荷もいっていない(もったいない)。修学旅行ではなんだかんだ理由をつけて鳥居の外側をぐるりんと回って敷地に入り、おみくじだけは引いてくるという、とかく姑息な学生だったのだが。

この歳になってなんと、九州地方の神主さんとお知り合いになってしまった。オンライン・コミュニティー、恐るべし。

もちろん、礼節を最大の了解事項として集った方たちの場であり、しかもオンラインなので面と向かって会うこともなく、その場で宗教上の是非を議論するなんてことはもっとない。
他にどんな宗教や政治信念を持った方がいるのかわからないけれど、読書や勉強会を通じていろんな世界の、職種の方と出逢えるというのは、最高の出会い方のひとつなんじゃないかと思う。

その神主さんが、ある日投稿したブログで(とても文章のうまい方なのだ)
「古くから人々の信仰や崇拝の対象となっているような場所を、訪れるのはとてもいい。できれば人気の少ない時間に。望めるのなら早朝や日没の頃に。」といった趣旨の文を書かれていた。

これを読んで、急激に羨ましくなった私が、
「私の暮らすカラッカラの土地では、なかなかそういう幽玄な場所がなく、せめて心の中で祈ることや文を書くことでその”場”を体現しようとしているが、なかなかうまくいかない……」
というようなあほみたいなコメントをしたら、なんとお返事をいただいてしまった。

朝、いちばんの時間。
お布団から起きあがる前、あるいは携帯を見てしまう前に、頭の中だけでいいから、むかし訪れて気持ちの落ちついた場所、神社や仏閣などを思い描いて、正門から中に入り、しずかに石畳を歩いて、ご本殿やご本堂の前に立っている自分を想像してみる。
ほんの二秒でもいいから、そうされてみてはいかがでしょうか。

神主さん

と。

すぐにビビビとくるものがあり、御礼を言って次の朝から実行しているのだが、それが、はまった。

初日、言われたとおりに、神社だって今度は避けまいときめてこれまでに見聞きした神社仏閣を思い起こし、参拝するべく脳内再生を始めたのだが、どうしたことか私は、本堂からはほど遠い、林道の入り口からうっかり歩きはじめてしまって、林はどんどん鬱蒼としてくるし、三日たった今でもまだ正門まで辿りつけていない笑。

でも、その脳内林道散策がすごくて、歩みをすすめるたびに大気はひんやりと研ぎ澄まされ、靴の裏には濡れた落ち葉を踏みしめる感覚。目をやれば苔むした岩のすきまから水が沁みでるていて、鳥の声はどんどん高く、遠くなる…確実に神聖な場所に近づいている確かな感覚がある。
時間にしてほんの2分もないのに、脳内はすっかり幽玄な日本の森を散策している。
体感温度だってぜったいコンマ数度下がっているにちがいない。

思いかえせば、物語を書こうと七転八倒しているとき、私はいつも朝起きて、身支度をし、PCを開いて、ワードを立ち上げ、キーボードを叩いて……と、実を得ようと急ぐあまりに心的な部分をすっとばして、まったく違うことをしていたのかもしれない。
まず何よりも先に、脳内でその世界に降りていけばよかったのか、、、この段階をいったん踏めばよかったのか、、、、と頭から冷水をかぶったような気づきをもらって、神主さんに感謝でいっぱいのこの頃。

やはり古来の伝統を大切に守り、担ってこられた方というのは、ほんの二、三行の文を交わすだけで、深遠な本質にすっとつながる箇所を見てくれるものなのだなあ。
たとえ私が日本で、神社に熱心に参拝したとしても、参拝者と神主さんという関係ではなかなか聞けなかったであろうこんな話を、ほんの数行でくみとり、伝えてもらえたことは、とてもかけがえのない経験だった。

さあ明日の脳内参拝で、私は正門に辿りつけるのだろうか。

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