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くらしの所感を往復書簡で届ける「くらしのしょかん」はじめます

こんにちは。
鞆の浦を拠点に生まれた、つながりとあなたの選択に寄り添う会社「コト暮らし」です。

この度、コト暮らしで運営している古民家カフェ「ありそろう」のデザインを、「ここち」の神岡真拓くんにお願いさせてもらうことになりました。

僕らは高円寺で暮らしていたときに出会い、そこから不定期に暮らしについて語り合う間柄です。

真拓くんとは当初、「ありそろう」のデザインをお願いしようと打ち合わせをしました。ただ、気付けばいつも暮らしについての会話で盛り上がり、改めてデザインは暮らしとつながっていることに気付かせてもらったんです。

そこで、一度ロゴをデザインして終わり。ということではなく、半年間自分たちが感じていること・考えていることの壁打ちとデザイン面を伴走してもらうことになりました。

新しい企業とデザイナーの関係性にチャレンジしています。

であれば、暮らしを真ん中においた何かをやってみたい。そんなことから、この半年間いっしょに、くらしの所感を往復書簡で届ける「くらしのしょかん」をやってみることになりました。


きっと、僕らの共通点って「暮らしを手さぐりしていること」だと思うんです。

高円寺で暮らし、結果として鞆の浦(広島)と諏訪(長野)へ地方移住をし、それぞれの暮らしを模索し続けている。ファッション的に「手ざわり感」を求めるわけではなく、今の自分たちに合った暮らしを「手さぐり」しています。

「手ざわり感」。
使い倒されているありふれた言葉ですが、今はこう思っています。

「手さぐりした先にしか、手ざわり感は存在しない」と。

手ざわり感とは、それに向き合い続けた人だけが感じられる、深いところにあるものかもしれない。だからこそ、手さぐりは欠かしちゃいけない大切な時間なんです。

そんな暮らしのスタンスを持った僕らで、改めて「手ざわり」感に必要な「手さぐり」を対話し、考えていきたい。

そして、その様子を『往復書簡』という形で残しておきたいと思います。

きっとこの往復書簡の中には、それぞれの暮らしの価値観がにじみ出てきます。その価値観に触れてみて、ひとりでも多くの方が自分自身の”くらしごこち“について考える機会になれば幸いです。

それでは、最初の手紙をここから書いてみたいと思います。


手ざわりってなんだろう

今回のテーマとなっている「手さぐり」と「手ざわり」の話は、まひろくんと話しているなかでポロッとでてきた言葉でしたね。

まひろくん「僕らっていつも手さぐりしてますよね。わからないことがあれば、それを探しにいくような。きっと手ざわり感って、そんな手さぐりの先にしかないと思うんです。」

多分こんなことを言ってくれていた気がする

それから「手さぐり」と「手ざわり」というキーワードがいつも頭の片すみにありながら、日々を暮らすようになった気がします。

改めて考えたいのが、「手ざわり」ってなんだろうってことで。

わかりやすい解釈は「プロセス」と「結果」の、「結果」の方だと思うんですが、結果と手ざわりではなんだか感覚がずれているんですよね。

例えば暮らしのなかにおいて、何かの成果や結果がでることってほとんどないと思っています。捉え方によってはあるかもしれないけど、結果を求めてしまった時点で「それは暮らしなのかな?」と思ってしまう節がある。

暮らしって、小さな小さな点の積み重ねでしかなくて、「日常」なんですよね。小杉湯的にいうと、ケとハレのケの方。暮らしにおいて、結果みたいなものは存在しないのではないか?というのが、個人的に持っている仮説です。もし存在したのであれば、それはハレなんだろうなと。

そう考えていくと、手ざわりってなんなのでしょうね。

1年前、僕ら家族は東京を離れて、鞆の浦という小さいまちに移住をしたわけですが、この移住そのものはまさに手さぐり。

鞆の浦にどんな暮らしが待っているのか?そこで何を感じて、どんな影響を受けるのか?もっといえば、移住して幸せになれるのか?

そんなことは何ひとつわかりませんでした。でも、ここには何かがあると感じたし、その何かを見つけにいきたいという気持ちを持てたんですよね。だからこそ、移住という選択をすることができました。

すると見えてきたものたくさんあって。そのひとつひとつこそが、手ざわり感なんだろうなと感じてます。

ひとつ思ったことは、手ざわり感を感じられた先にも道が続いているということ。

手ざわりを感じられたら、「あ〜なるほど、こういうことね」となりますよね。自分のなかに腹落ちしてくるイメージ。だけど、そこは何かのゴールではありません。

そこで得た気づきや学びのようなものを、別に生かしてもいいし生かさなくてもいい。本棚に本がひとつ増えたような感覚に近いかもしれません。

その瞬間何かが生まれるわけではないけど、いつの日か生かされていく大切な情報・感覚なんだろうなと思いました。

ここ最近、身体性や身体感覚といった類が注目されつつありますよね。情報として理解するのでは弱くて、腹落ちした時のような「それ!」となる身体で何かを受け止めたかのようなあの感覚。あの体験をひとつずつ積んでいくことが、オンライン化が進む現代において、大切なものなんじゃないかというお話です。

手さぐりも手ざわりも、間違いなく身体感覚がそこにあると思うんです。むしろ、身体感覚がない手さぐりや手ざわりは、まだ表面的なところをなぞっているだけなのかもしれません。

手さぐりは「手」でさぐっているし、手ざわりは「手」でさわっている。

コツンと、手に何かあたったあの感覚。
おそるおそる触ってみて、何かを確かめるあの動作。

それが手さぐりと手ざわりなんだなと、こうやって手紙を書いていて自分のなかに落ちてきたような気がしています。

まひろくんは、手さぐりと手ざわりについて考えた時、でてくる言葉ってなんですか?

このやりとりこそが手さぐりだなと思いつつ、最後に問いを置かせていただきますね。

お返事お待ちしています。


コト暮らし
長田


▼コト暮らしについてはこちら

▼Voicyでも「手さぐりと手触り感」について話しました


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