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学問の道は立派な先生につき良い友を選ぶことにある :細井平洲

細井平洲『嚶鳴館遺草』(渡邉五郎三郎現代語訳)から、

学問の道は立派な先生につき良い友を選ぶことにあるというお話をご紹介します


学問の道は立派な先生につき良い友を選ぶことにある :細井平洲


殿がまだ御若年のこと故、貴君が忠誠の心一筋にお仕えして、行く行くは名君と呼ばれるような方になっていただきたいとのお志、いまさらながらご忠誠の程感じ入っております。
いつも申し上げておりますように、一国がよく治まるか乱れるか、領民が喜ぶか不安に思うかは、只、君主一人の徳か不徳かにかかっていることは申すまでもありません。
殿が御立派であれば、すべての事が上手くいかないはずはなく、殿が良くなければ、すべての事が上手くいかないことは、昔から言われていることであります。
重職にある者は、君主の心の間違いを直すものであると言われていますが、貴方の職分は何よりも君主のお考えを正しくお育て申すことが最高の忠義で、これより大きな功績はありません。
近ごろこのような点に心を尽くされますことは珍しいことで、失礼ながら貴方などは世にも稀な御忠臣と存じます。
さて、君主の徳とは、本当にご本人が自主的に善を好み悪を嫌われること以外にありません。
この自主的に善を好み悪を嫌われるということは、是非邪正の道理をしっかりと自分の心と考えられることであり、その方法は学問よりないと考えられることより外に良い手段はないと考えます。
益々学問に精進され、いつまでも勇敢に怠りなく取り組まれることであります。
しかし、実際に学問をお好きになるように心を尽くされても、なかなか思うようにいかず心配しておられますこと、もっとも至極のことと存じます。

真摯なお便りをいただきましたので、失礼ながら私の意見を遠慮なく申し述べさせていただきます。
先ず以て、貴方のお考えはもっともと思いますが、全般の取り組み方が充分に行き届いていないためかと思います。
良くお考えになってください。
どのようなことでも、初めた最初から面白いことはありません。
まして学問と申すのは、心の在り方でありますから、お若い御主君ご自身が最初から面白く思われるはずはありません。
ですから、昔から学問を進める道は、立派な先生につき、良い友を選ぶことにあると申します。

この良き師友なくて、名君に一人でなられたお方はありません。
しかしその良師良友も、君主自らが之を敬い、之に親しみ愛することがなければ、なんの役にも立たない人になられるわけであります。
身分の低い人は、先生とはいつも気軽に質問をし教えてもらい、友人とは日頃から心易く話もしておりますので、お互いに心は通じ合い、先生も遠慮なく教え導き、友人も遠慮なく議論できますので、そのような中で学ぶことができますとお互いに自然に溶け合い、学問も面白くなるものであります。

貴い地位にある人は、例え尊師などと言って名目は貴くあっても、実際は主と家来との関係で君主野方には何となく低く軽く見る心があり、臣下の方には元より君主に対する畏れ敬う気がますから、大方は十の内二つか三つより言わないものであります。
まして学問のお相手に選ばれたものも、学問のお相手だけという立場ではなく、お側仕えの気持ちでいるので、善くないと判断したことも大体は黙っていてむやみに申し出ません。
こういうことで主君の学問が面白くなるようなことはいつまでもないわけであります。
そこで君主に学問を面白くなっていただくためには、この点をよくお考えになることが必要であります。

ですから、君主が学ばれる時の臣下は師匠と申し、又は賓客賓師を申す呼び方もあります。
ですから、学問の勉強をするときだけは通常日頃の儀礼を外し、師は家来ではなく本当の先生、学問の友はお側仕えの者ではなく、学問の仲間という姿にならなければなりません
君臣の心が隔たっていて礼法だけにこだわり、遠い末座の席で手を付き頭を垂れて始めから終わりまで定まった言葉を並べ講じて、相手に聞こえようと聞こえまいと関係なく、只礼儀を失わずに一章二章と済ませ、それ以外の事は一言半句も申し上げないというようなことは、世に言う御書院講釈というもので、たとえ何年学ばれても少しの益もなく、唯形式を整えたというだけのものであります。
(『名君上杉鷹山を導いた細井平洲の人間学『嚶鳴館遺草』私解』渡邉五郎三郎著より)

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