何故"同性愛"に「タチ」と「ネコ」があるのか。

風薫る爽やかなこの頃、夏の足音が大きくなってきたわね。皆様、体調お変わりないかしら。

最近、とあるフェミニズム本を読んでいてね、ハッとさせられた事があったのよ。

上野千鶴子「"ブッチ"*とか"フェム"*とか、役割分担があるでしょ。"タチ"*と"ネコ"*とも呼ぶよね。大雑把に言えば男役と女役。私はそれが不思議で、「なんでそんな役割分担するの?」って聞いたら、あるレズビアンの人が「性愛に異性愛しかモデルがなかったからよ」って言ったの。」
『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!』(2020年)(上野、田房 p.147)

※上記の言葉に少し補足させて頂くわ。
・ブッチ…日本ではほとんど聞かない言葉で、日本で言うならば「ボイ」が近い言葉。ボーイッシュな服装・表現をするレズビアンの事。
・フェム…フェミニンな服装・表現をするレズビアンの事。
・タチ…性行為の際に能動的な方
・ネコ…性行為の際に受動的な方
それぞれは全て異なる言葉よ。

■性愛は、学習して得るもの
本書の中で、上野先生は「性愛は学習して得るもの」と仰っているわ。私達は恋をした時、抱いている感情が恋とわかるのは、アニメや本、周りの人間から聞いて学習しているから。
そして、異性愛については今まで築かれてきた物語や歴史があるけれど、同性愛についてはそれが非常に少なく浅い為、自分達で築いていかなければいけないから大変だと書かれていたわ。

私は同性に恋をする人間として生きてきて、こういう視点で物を考えた事が無かったから、目から鱗がボロボロ落ちる音が聞えたわ。同性愛って、異性愛の要素を笑っちゃう程に受け継いでいるのね。

■タチ、ネコ、リバ
私がレズビアンだからレズビアンの話をするわね。
レズビアンの間では、タチとかネコとかは―人に依るかもしれないけれど―セックスする上で、また、恋人同士になる上でも重要な問題なのよ。
タチ同士だったりネコ同士だったりするとセックスに支障が出る。お互いの役割分担が出来ないから、スムーズに事が進まないのね。
だからいくら相手に恋焦がれていても、"役割"が合わないと、その時点でその相手とのセックスや恋人としての関係を結ぶのは無しになってしまう。

どちらにでも役割移動出来る"リバ"という立ち位置もいて、「リバ最強説」を唱えるレズビアンが多いのも、役割に重きを置かれているからね。

■そもそも同性同士のセックスに役割は必要だったのか?
身体的差違があり、また繁殖という目的があった異性間でのセックスでは、"役割"が分かれるのは自然な事に思える。オスは競争してメスにアタックする。メスはアタックしてくるオスを選別し、その結果結ばれる。
オスが能動的で、メスが受動的になる異性愛のセックスは人間の生物としての歴史を感じる役割分担だ。

しかし、同性間のセックスに、それは必要なのか?
もし仮に、同性間のセックスが遙か昔からあるものであり、異性間のセックスを模倣し学習する必要も無かった場合、この「タチ」だとか「ネコ」だとかって、存在したのかしら。「全く別のセックスの形」があったんじゃないかしら。

もっと自由で、もっと開放的で、もっと形のないものだったはずなの。

■ボイ、フェム、中性、その他
また、レズビアンの世界では、「ボイ」、「フェム」、「中性」というカテゴリもあるわ。とっても雑に3つにカテゴライズされる事があるから、今回はその話をするわね。こちらは、セックスでの役割の話ではなく、「見た目や表現」の話ね。「ボイ」はボーイッシュなファッションとか振る舞いをする方の事を指すし、フェムは女性的で、中性はどちらにも属さないような方を指すわ。

ボイ同士、フェム同士のカップルもいれば、ボイとフェムで付き合うカップルもいる。そして面白い事に、ボイの方がタチで、フェムがネコである事が多いし、ボイがフェムに奢ったり、助手席に座るのがフェム側だったりするの。

ああ、なんて異性愛的…!!!
書いていて思わず嘆いてしまう程に異性愛の流れをそのままに同性愛をしているのね。

■変わってきた同性愛のカタチ
言い方を悪くすると、「異性愛の形式を模倣した同性愛」は、上記のようなカテゴリを生み出したわ。「ボイはフェムに奢らなければいけない」「フェムは可愛くなければいけない」「ボイのくせに」等の、男女でもあったような強制されたジェンダーロールによる居心地の悪さを再生産してしまっているのよね。

ゲイタウンで話を聞くと、上記のような流れは今でもあるけれど、昔よりその傾向が無くなってきていると聞く事が多いわ。自分のしたい恰好や表現をして、自分のしたいように相手を愛する。

そして、セクシュアル・フルイディティ(自分はどんな性であるかや、どんな性に惹かれるかが流動的である事)も広まり、型にハマらない人が増えてきたわ。セクシュアル・フルイディティという言葉の認知とか、「ボイとかフェムとか型にハマるの変だよね」という風潮の広がりについては、ここ数年の出来事。

2010年代後半にフェミニズム運動やLGBTQ+についての運動や社会的な認知が急激に広がり、"当事者”にも「ジェンダーロールや性の在り方」を考え直す方が増えたからだと思っているわ。


愛は自由なものであるべき。
私達は数千年という長い間、理想の愛を型にはめて、それを描く映画や小説で感動をしていたけれど、もう各々に違う愛が生まれる時代へ動き始めている。そんな時代に、生きている。