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ショートショート 「父さんの裏切り」

世間はいま開催中のパリ・オリンピックの話題で持ち切りだ。
でもボクは個人的にオリンピックをボイコットしているので、試合はもちろん、スポーツニュースや情報番組の類いも一切観ていない。
ごはんの時にダイニングキッチンのテレビでオリンピック関連の番組が流れていても、俯いて見ないようにしている。
ボクはオリンピックが嫌いだ。
「オリンピック」「五輪」あるいは「IOC」などといった言葉を聞くだけで吐き気を催してしまうほど嫌いだ。
ふん。
なにが「史上もっともエコなオリンピック」だ。
本当にエコロジーのことを考えるなら、そもそもオリンピックなんかやるべきじゃないだろう。
まったく偽善もいいところだよ。
パリ五輪組織委員会が重視しているのは、おなじ「エコ」でも「エコロジー」ではなく「エコノミー」に違いない。
インターネット環境が拡充し、膨大な情報を得ることが可能となった今日、その気になれば、誰だってある程度は真実を追及することが出来る。
なのに、人々は未だカネと利権にまみれたウソっぱちの平和の祭典を尊んでいる。
世のなかには他に目を向けるべきことがたくさんあるというのに、どうして…?
数多ある社会問題に目をつむり、誰かが飛んだり跳ねたりするのを見て一喜一憂していられる人の気が知れない。
イスラエル・パレスチナ問題は周辺国を巻き込んで泥沼化の様相を見せているし、バングラデシュは民衆による反政府運動が激化したあげく首相が国外へ脱出するなど非常事態に陥っている。
またイギリスでは移民排斥を訴える右翼の活動家らが連日暴動を起こしているし、ロシアとウクライナの戦争は開戦から2年を過ぎた今も解決の糸口すら見つかっておらず混迷を極めている。
その他にも大きな地震が起きたり、台風が接近したり、株価が乱高下したり、フワちゃんがSNSでやす子に暴言を浴びせたりと、世界中で日々さまざまなことが起きているのだ。
にもかかわらず、テレビは呑気にも朝から晩までオリンピック一色なのだから、ほとほと呆れてしまう。
上野千鶴子先生が「うんざりする」とお怒りになるのも無理はない。
いや正直なところ、上野先生に対しては個人的に思うところがあるのだが、まあ、今ここでその話をするのはやめておこう。
(おいおい、匂わせておいてそれはないだろう)
でも…。
(言いたまへ)
ハイ。
えー、覚えていらしゃる方もおいでだろうが、数年前、ボクたち衆民は先生からこのようなメッセージを賜った。

「平等に貧しくなろう」

先生は泣く子も黙る東京大学の名誉教授であらせられ、2024年米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出された途轍もなくエラいお方だ。
そんな先生のご鞭撻なのだから手放しで受け容れるべきなんだろうけど、ボクにはそれがどうしても出来ないのだ。
眺望良好なタワーマンションに住み、高級外車BMWを乗り回しながら、どの口が言ってんだよ…なんて思っちゃったりするのである。
それにしても「平等に貧しくなろう」ってなんなんだ?
原始共産主義か農村社会主義でもやるつもり?
ボク絶対にヤだかんね。
まー、そりゃアンタはいいよな。
この先日本がさらに落ち目になろうとも、年齢的に100%逃げ切れるだろうし。
でもアンタが死んだあとも日本は存続し続けるんだぞ。
ちょっとは後人のことも考えてモノ言え。
つーか、黙ってろ。
もう充分稼いだろ?
そもそも日本をダメにしちまったのは、アンタら団塊世代じゃないか。
なのになんでボクたち若者が割を食わなきゃなんねーんだよ?
なんでアンタらジジババの尻拭いをしなきゃなんねーんだよ?
汚ねぇケツこっち向けんじゃねえっつーの。
つーか、グダグダ言ってねぇで、てめーが率先して財産放棄しろよ。
話はそれからだ。
高度経済成長期の恩恵を存分に受けて生きて来たあげく「若けぇの。運が悪かったな。おめーらはずっとビンボーしてな」ってか。
よく言えたもんだな。
若者ナメんじゃねーぞ。
庶民ナメんじゃねーぞ。
暴動起こしてやろうか、はぁ〜ん!?
(なにもそこまで言えとは…)
おっといけない、冷静さを失ってしまった。
反省反省…。
まあ少し口が過ぎたが、ボクは間違ったことを言ったつもりはない。
せせこましい2DKのアパートに家族5人で暮らす庶民の目には、どうしても先生の言動が矛盾しているように映るし、そこにバチクソ違和感を感じてしまうのである。
でもまあこの件はオリンピックとはなんの関係もないので、ひとまず脇へ置いておくことにしよう。

えーっと、なんの話してたっけ…。
あ、オリンピックだ。

母さんと弟と妹は、毎日のように、やれ勝ったの負けたのと大騒ぎをしている。
ボクは心のなかであの人たちのことを「意識低い系」と呼んでいる。
あの人たちのせいで家のなかに常時オリンピックムードが漂っているので、ボクは大変居心地の悪い思いをしている。
時に逃げ出したくなることもあるが、行くあてもないし、外は暑いし、セミはうるさいし蚊もいるし…。
せめてもの救いは、父さんがオリンピックにあまり関心を持っていないことだ。
家族と一緒にオリンピック関連の番組を観てはいるものの、いつも奈良の大仏さまを彷彿とさせる、なにかを悟ったかのような半開きの目で画面を見据えている。
日本の選手が勝とうが負けようが、母さんが「バラいろダンディ」にチャンネルを変えようが、キープ・オン・ 半開きング。
微動だにしない。
と思いきや、ふと見れば、白目を剥いて寝ていたりもする。
ボクは心のなかで父さんのことを「意識薄い系」と呼んでいる。
まあ父さんのおかげで家のなかのオリンピック濃度が多少なりとも薄らいでいるのは紛れもない事実であり、ボクはそのことに感謝しなければならない。

とまあ、ここまで家族のことをボロクソに貶して来たわけだが、かく言うボクも3年前の東京オリンピックの時には懸命に日本人選手を応援していた。
卓球の女子シングルスで伊藤美誠選手が銅メダルを獲得した時には拳を握りしめて歓喜の声を上げたし、サッカー男子の3位決定戦で日本がメキシコに敗れた時には、悔しさのあまりテレビの前で嗚咽を漏らしたほどだ。
でも、あの時のボクはまだ小学2年生の子どもだった。
社会のことなんかなにも知らなかったし、当時の自分をいま責めたところで意味があるとも思えない。

「いやぁぁぁぁぁぁ〜ん!」

ん…?
あの素っ頓狂な声は母さんだな。
ちょっと様子を見に行ってみるか。
ボクは子供部屋を出て、声のしたダイニングキッチンへ向かった。
まん前まで行って、廊下からなかを覗く。
するとどうしたことか、母さんと弟と妹が抱き合っておいおい泣いているではないか。
テレビが付いており、画面には男子バレーボールチームの選手たちが映っている。
ふむふむ。
どうやら3人は準決勝で日本がイタリアに負けたことを嘆いているようだ。
それにしてもなんだこの一体感。
きんもー。
ボクは見ていられなくなって、子供部屋に戻ることにした。
3人を軽蔑しながら廊下をトボトボ歩いていると、今度は父さんと母さんの部屋から声がした。
誰かが話しているのだろうか?
いや、地底人かなにかがうめき声を上げているのかも知れない。

「ふご、んがぁ、がっ、ぐごがぁぁぁぁぁ…」

ボクはおそるおそる扉を開けて部屋のなかを見た。
するとそこには父さんがいた。
「ふご、ふご…」と謎めいた奇音を発しながら、轢き殺されたカエルよろしく、まん丸い腹を見せて床の上に寝転がっている。
ボクは、部屋のなかに飛び込んでその死んだカエルを抱きしめたい衝動に駆られた。
でもカエルはまだ死んでいたそうに見えたので、死なせたまま、そっと扉を閉じて子供部屋に戻った。
勉強机の椅子に座った途端、とめどなく涙が溢れ出て来た。
ありがとうカエル…じゃなくて、父さん。
あなたがいなければ、今頃ボクはきっとグレていたことでしょう。
盗んだバイクで走り出したり、夜な夜な学校に忍び込んで校舎の窓ガラスを壊してまわるなどして、人生を棒に振っていたかも知れません。
これからも一緒にオリンピックを無視しましょうね。
おやすみなさい。

「ふご、んがぁ、がっ、ぐごがぁぁぁぁぁ…」

翌日の昼下がり、母さんは近所に住むリヒトくんのお母さんをこのクソ狭いアパートに招待した。
なんせ狭いので、子供部屋にいても、ダイニングキッチンにいるふたりの声が一言一句漏れなく聞こえて来る。
ちなみに弟はスイミングスクール、妹はピアノ教室に出掛けており、子供部屋にはボクひとりしかいなかった。

「昨日のバレーボール観た? 私、試合が終わった瞬間、子供たちと抱き合って泣いちゃったのよ〜」
「惜しかったわよねー、最終セット。マッチポイントまで行ったのに…」
「ホント紙一重の勝負だったわね。試合内容自体はすごく良かったし、あと1点取れていれば…。神社へ行って願掛けしときゃ良かったわ」
「勝たせてあげたかったよね〜。高橋ランちゃんが泣いてる姿を見て、私、思わず込み上げちゃったもん」
「私も!」
「あんなシーン見せられたら泣くよね?」
「泣く泣くぅ」
「それにしてもさ、男子バレーの日本代表チームがこんなに強かったことって今まであったっけ?」
「ないない。断トツで過去イチよ」
「やっぱり監督の力かしら?」
「それは大いにあると思う。でもブラン監督ってこのオリンピックを最後に退任しちゃうんでしょ?」
「そうなのよ〜。たしか韓国のクラブチームの監督に就任するらしいわ」
「なんかヤな予感しかしない…」
「まあまあ。いい監督が就任してくれることを期待しましょ。それにさ、実際にプレーするのは選手なんだし。みんなまだ若いから、4年後は必ず借りを返してくれるわよ」
「そうね。私たちに出来るのはチームを応援することだけだもんね。それにしても今大会のチームって奇跡かって思うぐらい役者が揃ってたわよね。ランちゃんでしょ、石川選手でしょ、西田選手に山内選手、関田選手に高橋健太郎選手に…」
「あとカイくん!」
「そうそう、可愛いのよね〜! いつもニコニコしててさぁ」
「あの子を見てると、どんだけ真っ直ぐ育ったんだろ? って思っちゃう」
「ホント。ウチにもあんな子が産まれて来ればよかったのに」
「キャハハ! そーゆーこと言っちゃダメよ。…ところでさ、私、いま真剣に考えてんのよね。なんとかウチの子にバレーをさせることは出来ないかって」
「リヒトくん?」
「そう、リヒト。あの子陸上が好きでクラブに入ってるんだけどさ、陸上って世界との壁が厚いでしょ?」
「まあそれは頑張り次第って言うか、競技によっては勝負出来るものもあるんじゃないの? それに好きで頑張ってるんだからやっぱり応援してあげないと」
「まあそれはそうよね。親のエゴを子供に押し付けちゃたしかにダメだわ。そう言えば、イッペイくんってなんかスポーツやってたっけ?」
「長男? なんもやってない」
「好きじゃないの?」
「みたい」
「ってことは勉強系だ」
「だったらいいんだけどさ、勉強もダメなのよ。スポーツ出来ない、勉強出来ない、友達いない、ないないずくしなの。ナニで三冠王獲ってんだってハナシよ。あの子、ダンナにそっくりなのよねー。趣味とかなんもないし、休みの日もぜ〜んぜん出掛けないの。去年の夏休みなんか靴履いたの2、3回じゃなかったかしら」
「インドア系なんだ?」
「そんなカッコいい呼び方しないで。ただの引きこもり予備軍よ」
「言い方ww」
「たまに勉強机の引き出しを調べてやるの。万が一爆弾でも作ってたら世間に顔向けが出来なくなっちゃうでしょ?」
「そ、そんなことあるわけ…」
「いや。あの子ならやりかねない」

エラい言われようである。
義務教育を終えたら山小屋に移り住んでユナボマーみたいになってやろうかしら。
まあいいけどさ。
母さんは好きなことを言っているだけで別にうるさくはないし。
ボクがイライラするのは弟と妹だ。
やつらはバカなので、すぐにテレビの影響を受けてしまう。
ホントに単純だから、決まり切ったように、フェンシングを観てはフェンシングごっこ、バドミントンを観てはバドミントンごっこをおっ始めやがるのだ。
あいつらを見ていると、ボクはいつもかたつむりを思い出す。
かたつむりって、きゅうりを食べたら緑色、人参を食べたらオレンジ色のうんこをするでしょ?
きっと知能指数が同程度なんだと思う。
そばでドタバタ音を立てられるだけでも充分迷惑なのだが、走り回りながら「男子史上初のフルーレ金メダルぅぅぅ〜!」とか「壮絶なラリーを制したのはわたがしペアぁぁぁ〜!」とか、いちいちアナウンサーを真似て奇声を上げやがるもんで、機嫌の悪い時など、本気でぶん殴ってやろうかと思うこともあるぐらいだ。
あー、思い出しただけで超ムカついて来た。
どいつもこいつもチクショー。
頼りになるのはやっぱりあの人だけだ。
あゝ、意識が薄い父さん…。
ボクはやっぱりユナボマーになるのはよして、東大の名誉教授になるよ。
そしてがっぽり稼いで父さんにタワマンとBMWを買ってあげる。
母さんと弟と妹は、平等に貧しくなって下さい。
文句があったらあの先生に言って下さい。
その夜、電気を消して布団に入ると、父さんの神々しい仏頂面がぼぉーっと浮かび上がった。
おやすみ、父さん。
なんまんだ。

しかぁ〜し。
どうやらボクは父さんのことを買い被っていたようだ。
その事実に気付いたのは、オリンピックが開幕してから14日目の、8月初旬のある日のことだった。
深夜、おしっこがしたくなったボクは、トイレに行くために子供部屋から廊下に出た。
その時…。

「いやぁぁぁぁぁぁ〜ん!」

と、また母さんの声がしたのだ。
今度はダイニングキッチンではなく、父さんと母さんが寝ている部屋から聞こえた。
はは〜ん、さてはふたりでオリンピックを観てるんだな…。
父さんの裏切りに腹を立てたボクは、怒りに震えながらドアノブに手を掛け、慎重に、音を立てないように、ほんの少しだけ扉を開けた。
そして部屋のなかを覗き見た瞬間、ボクの頭は真っ白になった。
ふたりでテレビを観ているのかと思いきや、なんとオリンピックにまったく興味を持っていなさそうに見えたあの父さんが、母さんを相手にレスリングごっこをしていたのだ!
ふたりは呼吸を荒げ、くんずほぐれつ全身でぶつかり合っていた。
父さんと母さんが興じていたのは「フリースタイル」という種目だった。
…え、なになに?
なんでそんなことが分かるのかって?
レスリングのもうひとつの種目「グレコローマン」では、腰から下への攻撃が禁じられているからだ。

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