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ショートショート 「知りし者のさだめ」

男は頬をつねってみた。

「痛い。本当に70になってしまったんだな...」

60で会社を定年退職してからというもの、男は憂鬱な毎日を過ごしていた。
無難な人生を歩んで来たおかげで老後の安心を得ることは出来たのだが、そのせいで何ら思い出を作ることが出来ずに歳をとってしまったのだ。
男は自らの人生に愛着が持てなかった。
そしてそのことを恥じていた。
もちろんそのように生きて来たのは他ならぬ自分自身なのだから、辛かろうが悔しかろうが過去の自分に折り合いをつけて現状に納得するより他ない。
むろん男だってそんなことぐらい分かってはいたのだが、頭でそう理解したからといって気分が晴れる訳もなく、心のうちに抱える虚無は日毎大きくなって行った。
男はよく妄想に耽った。
成人式に出席した若者たちに向かって壇上からこう諭すのだ。

「未来ある若者諸君、成人おめでとう。私はあなた方にこの言葉を贈ります。やらずに後悔するよりはやって後悔したほうがいい。...いいですか? 先人が遺したこの教訓は紛れもない真理です。現にこの教訓を蔑ろにして来た私は...私はいま、不幸のどん底にいます! 毎日毎日、虚しくて仕方がないのです!」

しかし一介の会社員だったこの男にそんな機会が訪れるはずはなかったし、また彼には若者の知り合いなどいなかった。
いや、そもそも老若を問わず気の置けない友人がひとりもいなかった。
男は例年通り誕生日を独りきりで過ごし、日が変わる前には寝床に入った。

「もしもし...」

目を閉じてからどれくらい時間が経っただろうか。
男は半醒半睡の状態で何者かの声を聞いた。

「もしもし...」
「...ん?」
「こんばんは」
「...あんた誰?」
「魔法使いです」
「魔法使い?」
「ええ。あなたの望みを叶えてあげようと思ってここへやって来ました」
「ああ、夢か...。こりゃいい。夢なら無茶だって出来るし」
「ふふ...」
「じゃあ、時間を巻き戻してくれないか?」
「いいですよ。では戻りたい時代を思い浮かべて下さい」
「分かった。...思い浮かべたよ」
「いいですか?」
「いつでもどうぞ」
「では...。やあ 。.。.。:o○☆!」

気が付けば男は食卓についていた。
箸と茶碗が立てる心地よい雑音と懐かしい味噌汁の香り。
目の前には父と母がいて、隣には妹がいる。
両親は若く、妹はまだ幼い。
父が読む新聞の一面にはこんな見出しが踊っていた。

「万国博覧会開会 世界を結ぶ交歓の輪」

男は頬をつねってみた。

「痛い...」

視線を移すとブラウン管が太陽の塔を映し出している。

「部屋の電気を付けっぱなしにして来たから消して来るよ」

男は寝入る前の自分よりもずっと若い両親にそう告げるとミシミシと音を立てながら階段を上って自室に入り、もう一度頬をつねってみた。

「...やっぱり痛いぞ。俺は本当に高校3年生に戻ったんだ。この柱の匂いも白熱灯の光の暖かさも、夢にしてはあまりにも現実的だもんな。...ということは、俺は人生をやり直せるんだ。今度こそ太く激しく生きることが出来るんだよ!」

男は畳の上に寝転がって、思い出がたっぷり染み込んだ天井の木目を見つめた。

「まずはやりたいことを書き上げよう。そしてそれをやるんだ。例えばジャズ喫茶に行って煙草を蒸したり、ディスコに行って女をナンパしたり、手始めにそんな下らないことからさ。とにかくやりそびれたことを片っ端からやろう。いろんなことにチャレンジするんだ。失敗なんか怖くない。なんせ一旦70年生きた身なんだからな」

男は起き上がって勉強机の引き出しから鉛筆とノートを引っ張り出した。

「...いや、待てよ。俺には未来の記憶があるんだぞ。言わば預言者なんだ。ということは適切なタイミングで商売を始めたり投資をすることだって出来るじゃないか。つまりゲームみたいに人生を楽しむことが出来るってことだよ。へへ...。よし! 記憶が薄れてしまわないうちに社会で起きた出来事を思い出せる限り書き出そう。えーっと、万博の直後って何があったんだっけ? たしか...」

記憶を辿り始めてすぐ、男は凍りついた。

「こ、こんなことしてる場合じゃないぞ!」

男は部屋を飛び出すと転がり落ちるように階段を駆け下りた。
そしてそのままの勢いで居間へと飛び込むと、黒電話の受話器を上げて震える手でダイヤルを回した。

「...もしもし、警察ですか? 公安に取り次いで下さい! 近々、ハイジャック事件が起きるんです。...ち、違うんです、悪戯じゃないんです。聞いて下さい!本当に...」

灯りの消えた部屋にツーツーと話中音が鳴り響く。
男は受話器を持ったまま垂直に崩れ落ちた。

どうやって信じて貰えばいいんだ...。
近々、よど号が赤軍派にハイジャックされて北朝鮮へ向かうっていうのに...。
俺はあの事件が起きることを知ってるんだ。
それだけじゃない。
再来年だったか、あさま山荘事件とテルアビブ空港乱射事件が起きることだって知ってるんだよ。
それから...。
そうだ、オイルショックが起きるんだ。
そういやアメリカでニュースキャスターが生放送の最中に拳銃自殺をする事件もあったな。
人民寺院とかいう新興宗教団体の教祖が信者と共にガイアナで集団自殺を図るという事件もあったし。
それから、それから...。
ソ連軍がアフガニスタンに侵攻する。
ジョン・レノンが銃殺される。
エイズが発見される。
ホテルニュージャパンで火災事件が起きる。
フォークランド紛争が起きる。
イスラエルがレバノンに侵攻する。
グレース・ケリーが自動車事故で死ぬ。
マニラ国際空港でニノイ・アキノが暗殺される。
豊田商事の会長が報道陣の前で刺殺される。
日本航空123便が御巣鷹山に墜落する。
スペースシャトル、チャレンジャー号が打ち上げから73秒後に空中分解する。
チェルノブイリ原子力発電所で爆発事故が起き、辺りに放射性物質が漏れ出す。
大韓航空機爆破事件が起きる。
天安門事件が起きる。
イラクがクウェートに侵攻する。
湾岸戦争が勃発する。
そして、バブル経済が崩壊する...。
あの当時、俺はたしか30代後半だった。
反物屋の跡取り息子だった同級生が株式投資に失敗して中央線に飛び込んだんだ。
あいつは俺の数少ない友人のひとりだった。
景気のいい頃は毎年のように車を乗り換えていたっけ...。

とにかく...もう考えたくもないが、その後も世界は災難に見舞われ続けるんだ。
列車が脱線し、飛行機が墜落し、火災が起き、疫病が蔓延し、地震が起き、台風が、津波が街を呑み込む。
交通死亡事故や殺人事件なんかほとんどの場合ニュースにさえならないんだ。
とにかく人が死ぬ。
どんどん死ぬんだ。
事故で、事件で、天災で、毎日毎日人が死ぬんだよ。
...で、俺はどうすればいいんだ?
仮にいずれかの事件か事故を言い当てることで警察機関なんかの信用を得ることが出来たとしよう。
それでもだ、俺の記憶力じゃすべての人間を救うことなんて出来っこない。
それに一旦ある事象を改変してしまったら、当然その後の社会に何らかの影響が及ぶことになる。
つまり俺がある事件や事故を未然に防ぐことによって、その先の未来で記憶の中の史実よりももっと酷いことが起きてしまう可能性もあるってことだ。
じゃあ、俺は...。
俺はいったい誰を救って誰を見殺しにすればいいんだよ!?

男は今度こそ力いっぱい頬をつねった。

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