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あと何ターン

息を吸い込んでいないのに、
ぼくの口からは大きなため息が出る。

「足が痺れて、歩けなくなってきた」

デイサービスで、その利用者さんを迎え入れるとき、明らかにいつもより足取りが重かったので「最近、体の調子どうですか?」と聞いた。
調子が悪いのは明らかだ。しかし「調子悪そうですね」と聞くほど、無神経な人間ではない。そういう人は時々居るが、他人の目線で事実を決めつけられるほど、それが心に影を落とすような言葉であったら、なんと自己中心的な考えを押し付ける人なんだろうと、ぼくは疑いの目を向けてしまう。

いや「最近、体の調子どうですか?」この確信犯的な問いかけも、無神経か。

その方から絞り出されたヨレてしなびた返事は、不安を追い抜き死への恐怖を感じさせた。

その方が、迫り来る死を実感してしまったのは、急激な体調の変化によるものだろう。先週お会いした時は、右手で杖をつきながらも軽快に歩いていたからだ。

今週に入って、急激に体が死に向かい始めた。
下半身の感覚もない、失禁と失便が始まり、自らの意思で布パンツから紙パンツへと履き替えていた。
死が耳元で語りかけてきてなお、介護者へ手間と配慮のために紙パンツに履き替えている。排泄の失敗から起こる己の羞恥心よりも、他人への気遣いや優しさを優先する選択だと思うのは、その方が普段から他者への配慮を優先する方だから、だからそう感じるのだ。

その事実に、なおのこと悲しくなる。

ぼくはその方と接していると、呼吸で吐く息が永遠にため息に変わってしまうような気がして。近寄りたいのか近寄りたくないのか、わからなくなって。悲しい作り笑顔って、したことないやって思った。

あと何回、会うことができるのだろう。

あと何ターン、会話することができるだろうか。

たとえば今、潤沢な生命を持っている人でさえ、
神様は、残してくれている会話の数を決めている。

ぼくはこれから、どんな言葉を選んでいくべきなのか。
どんな言葉を使いたいのか。何を伝えておかなくちゃいけないのか。

その方は、ぼくになんて言ってくれるのだろうか。
そういう付き合いをしてきたのか。

別れは、ある。

今日出会ったことが奇跡であって、今日無事に別れたことも奇跡だったのだ。

介護は大変。介護職はキツイ。そんなネガティブなイメージを覆したいと思っています。介護職は人間的成長ができるクリエイティブで素晴らしい仕事です。家族介護者の方も支援していけるように、この活動を応援してください!よろしくお願いいたします。