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紳士的であるかのように

「何を馬鹿なことをいっとるんだ。貴様!どこの大学の出身だ!このクソたわけっ!」

ただ、「野球やってらしたんですね」ぼくはそう、喋りかけただけだった。

「俺はな、慶應義塾の野球部でキャプテンだったんだ。なにを馬鹿な質問をしとるかっ!このクソたわけっ!」

隣にいるぼくに、部屋の端まで聞こえる声量でその人は怒鳴り散らす。

無論、ぼくは怒らせるつもりなんて露ほどもない。その人の介護資料を見て、昔話を得意げに気分よく話してもらえればと思って話しかけたのだ。

まだ、続く「俺をな、その辺の奴らと一緒にするなっ!お前らとは全く違う!」もう、何に対して誰に怒りをぶつけているのかもわからない。いや、怒りをコントロールできない自分に対して怒っているのか。そんな哲学的な面持ちすらある。

いやはや、こんなことで腹を立てていたら介護職員は勤まらない。

もちろん、道で通りすがった見知らぬじいさんに「このクソたわけ!」と言われたら「なんだと!クソ○○ィ!」と返す。これは正当防衛に他ならない。通りすがりにナイフを突きつけられれば、年齢・性別など関係ない。しかし、目の前にいるおじいちゃんは、そうなってしまう理由がある。

認知症とは、それほどまでに自分が自分をコントロールできなくなる病だ。

そのおじいちゃんは杖を使って歩く。仕込み杖でもなんでもない普通の杖だ。ゆえに体の重心は左に傾いている。
小柄な背丈に似合う少し太めのスラックスを履く。胸にワンポイントのワッペンがある襟付きのスウェットを羽織っている。
トレードマークは左の金具が壊れた眼鏡。レンズを下にして置く癖があるのか、かすれて白内障の人が見ている世界のように曇りがかっている。
メジャーリーグのマークがついたキャップを被っていることが、野球好きを裏付ける。

そのような、紳士的であるかのような佇まいだからこそ、認知症によって奪われた断片的な記憶と残った記憶から語られる言葉に、ぼくは疑問をぶつけざるを得ない。

介護資料には、慶應義塾の「け」の字もなく、どこの・いつの記憶を引き出しているのだろうか。

「たわけっ!」という言葉。人生の中で使ってきたタイミングは、いつだったのだろうか。

名は体を表すというが、
言葉もまたその人の人生を語るものだ。

しかし「たわけっ!」って。

こんなことで腹を立てていては、介護職員は務まらない。

ぼくは踵を、ぐうっと地面に押し付けていた。


介護は大変。介護職はキツイ。そんなネガティブなイメージを覆したいと思っています。介護職は人間的成長ができるクリエイティブで素晴らしい仕事です。家族介護者の方も支援していけるように、この活動を応援してください!よろしくお願いいたします。