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YATTANE(前編)【ショートショート】

ホットとコールド。
この二つの単語を聞いて、

「自販機ですね」

と相手が答えたら、ただ頷け。
しかしホットとコールドと聞いて、

「シールドは?」

と聞き返してきた相手からは、
音響の話が聞けると知っておいて欲しい。

大学卒業後、
ダンボールメーカーの事務として三年勤務。
その後二年の空白期間を経て再就職をした男が居た。

再就職が決まる際の面接にて、
前職の経験が恐らく無駄になるが良いかと聞かれ、
男の口は全く構わないと答えた。

同じく面接にて空白の二年は何をしていたかと聞かれ、
男の口は少し硬くなり惑いつつも、
「出版社に持ち込みを。小説で喰って生きたくて」
と答え、最後に、

「でも駄目でした」

と付け加えた。
それを聞いた社長は、

「そうか。
 まぁ忘れて頑張ってくれ」

と言い、
男の社会復帰を許したのだった。

男が再就職したのは映像音響を扱っている会社。
東京都江東区にある貸し土地にビルを建て、
関東は支社、本社は大阪という経営体勢。
江東区のビルは三階建てだが、
一階と二階部分は倉庫の為、双方二階分の天井高がある。
外側から見れば実質五階分の高さがあるビルは、
そのスカスカな内部構造の為、
関東大震災の時には揺れに揺れたらしい。

「生きた心地がしなかった」

そこまで先輩になる鰻さんに男は説明された。
それらは会社定番の話題だった。
新入社員の誰もが入社時に聞かされるであろう話の後、
いよいよ男は音響と映像のケーブルの話を振られた。

「HDMIって判る?」
「まぁ」
「じゃあDVIは?」
「これですよね」
「キャノンってどれか判る?」
「これですか?」
「どれがホットか判る?」
「ホット……?」

聞き慣れた筈の言葉、ホット。
英語で意味は暑い、熱い。
それがケーブルの一部の名称だと教えられれば、
既存の知識は新鮮な知識に早着替え。

キャノンというのは音響ケーブルの一種で、
大砲の砲身のような見た目をしている。
端子先端を覗くと顔の様に三つの芯があり、
それにはホット、コールド、シールドと名称がある。

「んでこっちのケーブルがアンバラ、
 こっちがバラで」
「アンバラ?」
「バランス、アンバランスの事や」

自販機位でしか聞かなかったホットコールドの言葉の変わり身、
のみならず体操位でしか聞かなかったバランスの不意打ち。
他にも知らなかった知識が一日のうちに雪崩れ込む。
男はそれまで知らなかった世界の洗礼に己を恥じた。

無知は時に人を『無敵』に誘う。
狭い世界で「他に敵無し」と思わせる。

前職での事務という仕事も非常に閉鎖的なもので、
それに加えて小説家への夢を持っていた自分は如何にもの知らずだったか、
新しい環境に来てそれを悟った男は恥じた。
世の中には人が一生生きても飲み込めない程の事柄があるのに、
どうして全てを知った様な顔で自分は小説家など目指していたのか。

目の前に出される初対面のケーブルたちに見つめられる男。
よくみれば、どいつもこいつも割と愛嬌のある顔をしてやがる。
キャノンケーブルはおとぼけ顔、
シールドケーブルはマリオのキラー、
DVIはスターウォーズのC3-POに見えなくもない。
それらのケーブルは寛容に新入りを見つめてくるだけで、
誰も「ケッ、もの知らずが」などと突っぱねはしなかった。

「君、小説家になりたかったんやってね」

だが人には口がある。口は喋る。
噂が口を伝って広がるのはやむなし、
会社の先輩は何か話題を振ろうと新入社員に語りかけるものだ。

「はい、身の程知らずでした。
 喰えなかったんでこの会社に拾って貰いました」

男はそう言った。まるで負け犬だった。
いや、事実負け犬だった。
彼が身を置いたかつての戦場では未だ猛者達が争っている。
男はそこから飢えが怖くて逃げだしてきた。
それを負け犬だと指さされても、唇を噛む事しか出来ない。

苦汁が滲んでただろうか。
男は口では言ったが顔には出すまいと平静を装ったが、
ケーブルの説明をしている先輩、鰻はこう言った。

「ええやん、喰う為にここに来たんやろ。
 生活する為の事で悪く言う事ないで。
 取りあえず自分一人食わせていけたら十分やろ」

ケーブルが大量に眠る小部屋の中、
天井で光る蛍光灯は古いのか黄色く光る。
破れかかった段ボール箱、
壁に張られた黄ばんだ何か数字が書いてある紙。
その全てが沈黙の中二人の会話を見守っていた。

「はい」

と、男はそう返すのが精一杯で、

「これからよろしくな」

と鰻は男の肩を叩いた。

出社初日、定時過ぎ。
男はデスクに着く先輩達がまだいる中、帰らされた。

「出社初日から残業なんかさせられるかい、帰れぇ、帰れ」

そう言われて黒髪の頭を一つペコリと下げ、
客先から来る電話音をBGMに男はそそくさとロッカーへ。
男としても定時で帰れるのは計算のうちだった。
何せ今日は、久しぶりに会う友人と飲む約束がある。

江東区から新宿へ。
小説家を目指した二年のせいで、
スーツで飲み屋に入るのは久しぶりの事。
男は店に随分早く着いた筈だったが、
店の前には既に待ち合わせの相手がいた。

「よう」

と声をかけると、相手もようと返す。
相手とは二年会ってない。少し老けて見える。
という事は、きっと俺も少し老けたのだな。
口に出すだけ無粋だと男は相手を促して早くに店に入った。

「いや、俺はね、お前と会うのが怖かったんだよ」

コーラ、カルピスハイ、レモンハイ。
男は酒が弱かった。
対して相手は日本酒を飲んでいく。
興味がないので銘柄なんて男には判らない。
相手は酒のせいか再会のせいか、随分と声を張る。

「怖かったって、なんだよ」
「だってお前ほら、小説、やってたじゃん」
「ああ、まぁ」
「それがフェイスブックで『夢破れた』なんて書いてよ。
 いや、正直ほっとしたんだよ、これでようやく会えるって」
「へぇお前、何か気遣ってくれてたんだ。
 別に良かったのに、飲むならいつでも飲んだよ。
 金がない訳じゃなかったし」
「いや別に金がどうこうで誘わなかった訳じゃなくてさ。」
「じゃあ何、集中の邪魔しちゃ悪いって思ったのか」
「いやいや、俺に誘われる位で集中どうのじゃないでしょ。」
「じゃ何よ」
「いやぁ~……ほら、
 こうやって話したらさ、書かれるじゃん」
「……はぁ?」
「いやー有名な話だぜぇ?
 お前に身の上話したら全部小説に書かれるって。
 恋愛とか失敗談とか、なんでも書かれるって噂だったよ」
「そうなの」
「そうよそうよ。
 だからお前と話すの、俺、怖かったもん。
 プライバシーってあるじゃん。
 それが小説になって世間の誰でも知られるようになるって、
 ほら、昔もそういうのでなんか問題あったじゃん。
 あの、ほら……誰だっけ」
「石に泳ぐ魚?」
「なにそれ」
「柳美里さんの作品」
「そうその人!ぽらいばしーどうのこうの出裁判になったじゃん!」
「プライバシーな。舌回ってないだろお前」
「お前と俺とでそんな事になるのが怖かったんだよ……。
 何の気なしにポロっと喋った事をお前が小説にしちゃって、
 なんてさ。」
「なに、なんか面白い話あるの?」
「聞きたい?」
「お前が話したいなら聞くけど」
「もう小説家、諦めた?」
「諦めた諦めた」
「ほんとぉ?」
「殴られてぇのか」
「やだぁもう怒らないでよぉ!
 ……じゃあちょっとだけね?
 いや実はさぁ、お前と最後に会った三年前のさぁ、夏にね?」

男の目の前にはグラス、皿、
それに盛られた哀れな何かの亡骸達がソースをかけられ怪しく光る。
席はカウンターが功を奏して話し相手は横の席、
酒に酔った不愉快な顔をずっと見ずに済むのは良かったと、
後に男は別の友人にそう語っている。

この夜、男は恥ずかしかった。

店に流れるジャンゴ・ラインハルトとカンパリだけが優し過ぎて、
横の友人が語る話はどれを聞いても下らない。
今の彼女との恋愛の話も、滑って折った足の骨の話も、
友人から聞かされる話はどれもこれも詰まらない。
それなのに友人の口調はどこか得意げで、
下手したら小説にされてたかもしれないと思い温めてた話だと思うと、
もう恥ずかしくて仕方がなかった。

もしや自分が二年間で作り貯めた作品たちも、
いざ他人が読んだらこんなふうに、
感動の一つも与えられてはいなかったのではないかと、
ただの自分の独りよがりだったのではないかと、
まるで席と席と間にあるのは見えない鏡、
この横の酔っ払いはつい最近までの自分そのものではないかと、

男は恥ずかしくて仕方がなかった。


※ジャンゴ・ラインハルト(1910~1953)
ベルギーのジャズミュージシャン、ギタリスト。
しばしばヨーロッパ初の偉大なジャズミュージシャンと評される。

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