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黄金病【ショートショート】

『下』で生まれた。

下の上には『国』がある。
要するにここは『国』じゃない。

『下』はもともと『国』だったが、
ある時から『下』で暮らす人間に偏りが出来た。
結果ある時を境に『国』は『下』を切り離し上に昇り、
『下』は『国』ではなくなり、
以来『国』は『下』を助けた事が無い。

『下』に逃げるように集まっていたのは、貧乏人ばかり。
ここでの暮らしは一筋縄ではいかない。


朝起きてみると指の先が冷たい。
右手の人差し指が冷たい。
氷を触っていた訳でも無いのにひんやりとしていて、
試しに唇に当ててみると冬場の金手摺みたいだった。

血が通っているとは思えない。
切り落とした方が良いのでは無いかと冷たい指が思わせる。

しかしそんな度胸は無い。
指の先が毒蛇になったのなら切り落としもするが、
冷たくなった位で切り落とす程俺の身体に余裕はない。
生憎片手に指は五本しかない。

冷たさを紛らわす為に指を巻き込んで握りこぶし。
それでその日を一日やり過ごした。
すれ違ったりする知り合い数人に、

「誰か殴りたい奴でもいるのか」

と聞かれる度に、

「お前の事を殴ろうと思っていた所だ」

と言いつつ拳を頬に当ててやり、
誤魔化しに誤魔化しを重ねた。

仕事場でツルハシを握っていても冷たさは変わらなかった。
身体を動かす事でこんなにも全身は熱くなってると言うのに。
まるで右手の人差し指だけ呪われているようだった。

次の日になったが、
この朝が来た事を呪った。
冷たかった右手の人差し指が黄金になっていたのだ。

何度も目をこすり、
鏡の中の自分の瞳を覗き込み、
ここが夢の中では無い事を確認したが、
それでもやはり右手の人差し指の腹が黄金に輝いている。
(鏡中の自分と目を合わせると夢から覚めると言う迷信がある)

間違いない、
これは黄金病だ。

五年前に最後の患者が『回収』されたと言われていたが、
また流出したんだ、しかもこの俺の身体に。

まだ、指の腹だけだ。
指の腹の部分だけが金色に光っている。
それで壁を二回叩いてみると、キンキンと音がする。
音からしても黄金病なのは間違いない。

拳を作っても金色の指が隠れないので手袋をはめる。
この『下』という場所にに医者は居ない。
金と引き換えに健康になる薬をくれる奴らはいるが、
奴らは医者じゃない。
どこからともなく薬を仕入れ、
それを物知り顔で売りさばく、それも相当な高値だ。
昔はちょっと頭の良い若者と言われていたらしいが、
この『下』という環境が『人の善意』を許さない。
人の心は弱いもの。

なんて人の悪口を並べている場合じゃない、
この『下』にいるのは皆悪人だ、
悪口を言い始めたらきりがない。
そんなつまらない事よりこの指だ。
誰にも俺が黄金病だとバレちゃあいけない。
少しの弱みが他人の付け込む穴になる。

指の違和感に起こされたのか、まだ朝は早い。
ありったけの金を財布に突っ込んで靴を履く。
気持ちが急いでいるのか、
道中何度も路上の何かに蹴躓きそうになる。
いつもは目を閉じていても通れるほどに慣れた道なのに。

向かった場所は『ネット』。
『下』で二か所だけインターネットが使える場所がある。
無線で上と繋がっていて、
月に一回管理者が上からやって来て調整もする。
その利用料金は高い。
余程の事が無い限り皆使わない。
しかし裏を返すと、何かが起これば皆、ネットを使う。
ネットを使う者は何かしらの『異常』を抱えている。
ここでは弱みを見せてはいけない、
弱者は利用して当然と虎視眈々目を光らせる輩が多いから。

早朝なので誰もいないだろうと、
ネットの入り口へ続く道をすり抜け、
受付カウンターに身体を張りつかせた。

「ネット使わせて、急いで」
「1200タツです」
「えっ、そんなにかかるのか」
「1200タツです」

もっていけ、この野郎。
初めて聞かされる利用料金に面食らいながらも、
受付の狭い隙間に数日分の飯代になるであろう金を滑り込ませ、
勿体ぶって開いたドアに飛び込むように入って行った。

《何について検索しますか?》
「黄金病。」
《検索結果でました。文字媒体、音声媒体どちらを》
「音声、音声で頼む。」
《かしこまりました》

黄金病が最後に確認されたのは五年前。
ある一人の女性が右足の先端に発病し、
最終的に54人が感染。
うち二人は感染した身体の部位を切断しましたが、
残り52人は『国』によって回収され、隔離されました。
これまで断続的に感染者が発見されています。
感染者を発見した場合、
被害が広がる前に早急に『管轄課』に御連絡下さい。

そこまで喋った無機質な音声はとたんに黙った。

「おい、治す方法は?」
《ありません》
「黄金病、治す方法法を検索」
《黄金病 治す方法 の検索結果は ゼロ 件です》
「黄金病、治療法で検索」
《黄金病 治療法 の検索結果は ゼロ 件です》
「……黄金病で助かった例の検索は」
《該当件数は ゼロ です》

右手の人差し指が冷たさを増していた。

1200払ってネットの利用時間はたったの15分。
だが最初の五分で打ちひしがれるには十分だった。
残りの10分はひたすら黄金病で助かった症例を探し続け、
「ゼロ件です」という音声を延々聞いている所を摘まみだされた。
まだ外は眩しい朝が始まったばかりで人の姿が見えない。

《黄金病が再発見された可能性があります
 黄金病が再発見された可能性があります》

拡声器からそんな声が聞こえたのは、
部屋に戻り外した手袋から出てきた右手を見て、
どうしようかと思っていた時だった。

血の気が引いた。
何でもうバレてんだ。

黄金病で『回収』された奴らは死ぬ。
帰ってこないんだ、回収されてそれっきり。
帰って来ない事は死ぬことに等しい。

そうだ、
切り落とそう。

まだ黄金になっているのは指の付け根までだ。
切れそうなものと言えばナイフ。
なるべく錆のなさそうな刃の部分を黄金との境界に押し当てて、
さらば、と別れを惜しむ言葉も無く切り裂きにかかる。

だが痛い。
痛いと言うよりも焼けつく様に熱い。
刃は骨で止まった、やってられるかこんなもん、
骨までぶち切れたらどんだけ痛いんだ。
そうくるのを待ってましたと言わんばかり、
刃を引き抜いた途端、黄金が傷を庇うように素早く広がった。

カチカチと音を立てて広がる黄金は完全に人差し指を喰いつくし、
隣の中指、親指の付け根まで広がる。

このままでは手が黄金になる。
手だけじゃなく腕全体に広がって、
遅かれ早かれ、死ぬ。
学が無い馬鹿でも判る光景が無慈悲に理解を駆り立てる。

転がり込んだのは部屋の中のボロボロのベッドの中。
光の一筋も入らない様に身体を覆って右腕の手首を握った。
手首の下で血管がドクンドクンと苦しがっているが、
もっともっと苦しがれと力を入れる。
どうだ、これで苦しいだろう、
所詮は病、宿主の身体が衰えれば進行も遅く成る筈。
そんな盲信を勝手に抱えて毛布の中で手首を握り続けた。

しかしやはり痛いのである。
血管からは「もう血を通してくれ」と苦情の嵐。
結局耐えかねて手首を離すと一瞬だけカチという音が鳴った様な。
いや、気のせいだ、黄金が広がったりなんて、してない。
怖くてそのまま毛布をかぶり続けた。

どれだけ時間が経ったのかは知らないが、
もう外が夕暮れに近いぞと知らせに来たのはドアを叩く音だった。
ドンドン、随分乱暴な音が誰かの来訪を知らせる。
頭から毛布をかぶり右腕を巻き込み、
恐る恐るのぞき穴を見ると、そこにはハイドンが立っていた。
仕事仲間で共につるはしを振るう間柄のハイドン。
きさくな良い奴だが、ここは『下』。
どこからどう事が悪くなるか判らない。

「どうした」

とドア越しにハイドンに尋ねると、

「お前黄金病だろう」

と心臓が止まる様な事を言い始める。

「いやっ えっ なんで?」
「あちこちの道端にお前の顔が張り出されてる。
 お前、ネットで黄金病の事を検索したか?」
「……そうか、しまったっ!」
「恐らく監視カメラか何かで抜かれたんだろ、
 おい、匿ってやろうか。
 このままじゃお前、回収されちまうだろ。」
「本当か、どこにだ。」
「俺しか知らない場所だ、良い所がある。
 その代わりといっちゃあなんだが」
「なんだ?」
「指を一本くれ」
「    は?指?」
「そうだ、小指で良い、指をくれ、交換条件だ。
 お前は逃げられる、俺は金を得る。どうだ。
 確か黄金病は一度黄金になった所はもう戻らないんだろ」

結局、『下』はこうだ、こんなもんだ。

そうだろ、判ってたろ、
一緒につるはしを振るったからって、なんだ。
俺の心の底の底、底の一番下のマンホールがカラッと開き、
そこから姿の見えない何かが醜い笑顔でそう言った。
そいつの名は落胆、またの名を絶望。

ドアは勢いよく開け放たれ、
俺は黄金と化した右手部分をハイドンの顔にベタリと密着させ、
そのまま横殴りにふっとばした。
息を急激に蓄積した肺胞が膨らむ。
声を吐き出した。

「黄金病は感染するんだってなぁ、
 どうだ、お前の顔を触ってやったぞ!
 耳からでも黄金に変わるんじゃないか!?
 そんなに欲しいなら自分の耳をもげ、
 黄金の耳なら、もげ!自分の耳を金にしろ、もげ!」

興奮のし過ぎは言葉を乱す。
最後はもう何を言っているのか判らずに、
青い顔をしながら床に転げるハイドンに一瞥くれてやり、
もう帰れない部屋をあとにした。

ハイドンが言った言葉が頭に残る。
俺しか知らない場所だ、と。
そこは少なくともハイドンが知っている。
ハイドン以外の人間が知らない場所と言う事だろ。
それじゃダメだ、本当に俺しか知らないって場所じゃないと。

そんな場所が一つだけ、ある。
子供の頃に偶然見つけた場所だ。

鉄の壁が延々と並ぶ通りに、
一か所だけネジが馬鹿になっている点検口があるんだ。
俺が偶然、たまたま見つけた。
あの頃からサビ付いてたんだ、
今だってそのままに決まってる。

夜まで色んな所で声を殺し、
真っ暗になって人気も減った頃に懐かしの点検口に向かった。

全てあの頃のままだった。
錆は随分と多くなったが、
相変わらずネジが馬鹿になっていて、
大人になった身体でも受け入れてくれる程には広い穴だった。

やった、ここならもう誰にも。

そう思って真っ暗な中で壁に背を持たれさせた時、
まさかの人の声が聞こえた。

「お前さん、誰だね」

全身に針金が通されたみたいに、
一瞬身体が跳ねるように反応したのを最後に、
もう指先一つ動かせなくなった。
自分だけしかないと思っていた穴だ、
他に誰がいるってんだ。

「イルガじゃないだろ」
「……いるが?」
「わしの孫だ」
「俺は両親すら死んでる」
「そうか、わしにはまだ孫がおる」
「……あんたは誰だ、殺すぞ?」
「家族に捨てられたじじいだ、殺しても構わん」

言葉に偽りはなさそうだった。
声が、若さが籠っているとはとても思えないほどか細い。

「家族に、ここに捨てられた。
 捨てられたのは往来の道端じゃあなかった、
 一応世間の目という物を気にしたんだろ。
 それでここに隠すように捨てられた。
 それでな、孫がな」
「お前の孫なんてどうでもいい、他にも誰かここに来るのか?」
「まぁ、きけ。孫がな、孫だけがな、
 四日にいっぺん、食べ物を持ってきてくれる。
 良い孫なんだ、イルガだけが、まだわしを見捨てん」
「四日にいっぺん……おい、そいつが最後に来たのはいつだ。」
「昨日だ。」
「そうか……」

ひとまず、まだこのジジイ以外の人間に見つかる可能性はないか。

「お前さん、どうしてこんな穴に来た」
「追われてる」
「誰から?」
「……誰だろうな。誰だか知らんが、たくさんだ。」
「誰だか知らんのに、量が判るのか」
「誰だか判らない程に多いんだ」
「悪い奴なのか?」
「良い奴がこの世にいるのか?」
「はは、聞いたわしが馬鹿だったな。
 確かに、わしの孫以外は全員悪人だ」
「なかなか言うな」

黄金病だとは話さなかった。
もう夜も遅い。
腰を下して、壁に背を任せて、
目蓋を閉じれば疲れが夢の中に意識を投げ込む。

目が開いたのは暗い筈の空間に差した眩しさが原因だった。

「あの」
「なんだ、誰だ、おまえ」
「黄金病の方ですか?」

外はもう朝らしい。
じじいとは違って若さが漲る声が光の方から聞こえる。

「なんだ、お前、黄金病なのか?」
「じじいは黙ってろ」

眩しさを引き連れてやって来たのは女の声だ。

「あの、お願いが」
「来るな、それ以上来たら殺すぞ」
「殺さないで下さい、お願いが一つだけあるんです」
「手ならやらん、早く出ていけ!」
「違います、何もいりません、
 ただ、私の左手を触って貰えませんか」
「……?」
「ここに、こうやって出しておきます。
 この手を、黄金に変わった部分で触って貰えませんか」
「……どういう事だ?」
「三人、子供がいるんです。
 夫はついこの前どこかに行きました。
 私一人では子供達を飢えさせて殺してしまいます。
 どうか、私のこの左手を黄金に変えてくれませんか。
 私はその腕を売って子供達に食べさせたい、
 それだけなんです。
 どうかお願いします。」

握手を求めている訳では無い。
ただ黄金に変えてくれと、
ガリガリにやせ細った手がこちらに差し出された。

「そういう事なら、おい、お前。
 わしにも触れ、わしの身体も黄金にしろ。」
「なんだとジジイ?」
「わしの身体を黄金にして、孫にやる。
 もう、全身触りまくれ。
 くまなく、全身黄金にしろ。どうせ老い先短い。
 あの優しくしてくれた孫にな、この身体を黄金にして」

馬鹿、やめろ、阿保か。
何を考えてやがる、
自分の腕を斬った事あるのか、
刃を立てた事があるのか。
やってらんねえぞ、痛いぞ、
そんな事も知らずに勝手な事を言うな!

ありったけの大声で、
聞きつけた誰かに見つかるなんて事も考えられず、
じじいを置き、女を突き飛ばし、
明るい外に出た。

朝も随分と経ったのか辺りにはやたらと人が多い。
人だけじゃない、いつの間に増えたんだと思う程、
俺の顔が、辺り一面の壁に張られている。

《この者、黄金病の恐れあり》

その文字と一緒に大きく患者の顔、即ち俺の顔だ。
まるで犯罪者のような人相で貼り付けられ、
よくもまぁ、そんないかにもな人相で作ったと感心すらする。
おかげで一体で俺の顔を知らない奴は居ないらしい。
何人かが俺めがけて走ってくる。

「寄るな、触るぞ!黄金になるぞ!」

巻いていた毛布を抜き取って右手を日の下に晒すと、
もう掌はおろか、手首を越えて、
腕の方まで黄金に挿げ変わり始めていた。

もう、なんで神様、こんな事。

「くるな、触るぞ!」

そう叫んで走り出す、逃げ始める、とにかくここじゃまずい。
狭い路地、暗い場所、高い場所、
どこでもいいから人の目と人の手が届かない場所へ。

地面を蹴って走り出そうとした時、
身体が横に吹っ飛んだ。
しかし地面に叩きつけられたのは自分一人じゃない、
俺を吹き飛ばした張本人の中肉の男も一緒に転がり、
黄金の右手に両手を絡ませてきた。

「うぅ……ううん!」

唸るような声を出してベタベタと黄金の腕に触りまくる。
もう感覚はない、もう俺の腕じゃなく、これは黄金だ。
だが気持ち悪い、男の目が正気じゃない、
肌から酸っぱい匂いがする。

「離れろ!黄金になるんだぞ!感染するぞ!」

そう叫び男の腹に蹴りを入れて振りほどくと、
それでも触ろうとしてくる中肉の男。
なんだ、こいつも自分の身体を黄金にして売ろうってハラか。
馬鹿じゃないのか。
折角五体満足に生まれたんだろ、お前。

たった一人の狂気はまるで、
壊れた水道管から生じる飛沫のようだったが、
逃げ出そうと駆けだした先は、まるで濃霧のようだった。

何人もの人間が掴みかかろうと目を剥いている、
正直頭がおかしく見える、怖い。

黄金病は感染する、それは俺でも知ってる。
俺でも知ってるなら、この『下』の奴らは全員知ってる。
それを承知で掴みかかり、黄金に触ろうとしてくるって事は、
こいつら、自分の身体を黄金にして、
それを売ろうと思ってるのか。

「馬鹿野郎ー!触るんじゃねぇー!
 黄金になっちまうぞ、
 自分の身体じゃなくなっちまうぞー!死ぬぞぉ!!
 くるんじゃねぇ!!」

再び叫んだ、
お前達自分の身体を斬った事が無いだろ、
クソ痛いんだぞ、やめろ馬鹿、
黄金なんて誰が買い取ってくれるんだ、
そんなやりとりする奴、ここにはいないだろ馬鹿野郎、
下手したらトイレもいけなくなるぞ、
尻が黄金になれば屁も出せない程カチコチになる。
スプーンだって持てない、
どうやってツルハシを持つんだ、どけこの野郎。

もう最後は叫べばいいんだと言わんばかり、
頭に思いついた言葉を叫びあげ、
黄金になる事の恐ろしさを自分なりに紹介したが、
やはり俺が馬鹿なためか、
誰一人その恐ろしさを理解してくれない、
触ろうとするのを止めてくれない。

「馬鹿か!なんで触るんだ、感染するぞ!」
「うつしてくれ!俺はもう働きたくないんだ、
 腕一本売って楽に暮らす!」
「俺にも、俺にもうつせ!俺は母さんの病気の薬を!」
「あたしにも!」
「俺にも!」

追われながら信じられない光景を二つ見た。
一つは、子供を抱えた父親だった。
抱えられた子供はまだ小さい、生まれて一年経ってるのか?それ。
おい、やめろ、なにやってる、なに押し付けようとしてくるんだ、
それ、お前の子供だろ、何考えてんだ、
嘘だろ、馬鹿野郎、絶対触らせないぞ、
まだ何も知らない子供だろ、お前の子供だろ!
まさか子供を黄金にして売ろうってのか。
そんな事、俺が絶対許さねぇぞ。

なんだか泣きそうになった。

もう一つは子供だった。
不憫な事に両腕が無い。
生まれつきか、事故か。
それが遠くから走って追いかけてくる。
子供だから走るのが遅くて、
他の追いかけてくる大人達から離れ、
それでも追いかけてくるのを遠目に見た。
お前、俺を追いかけてどうするつもりだ。
俺に触ろうとしてんのか。
腕が無いその体の、どこで俺に触るつもりだ。
頭か、胸か、あっというまに死んじまうぞ。
両腕がなくてもそこまで生きて来たんだろ、
頑張ってそこまでデカく育ったんだろ、
若い命に何か言ってやりたくて、

「もっと頑張れバカヤロー!」

と、何を言いたいのか自分でも判らない叫びをかけたが、
途中でその子供はこけて地面に倒れてしまった。
それを見てもう追って来れない様に何度も角を曲がり、
何度も遠くの後ろを見た。
俺の願いが届いたのか、もうその子供は来なかった。

馬鹿じゃないのか。
なんで触ろうとしてくる、
感染するんだぞ。

皆、自分の身体を黄金にしてまで得たい何かがあるのかよ。
馬鹿じゃないか、指先一本黄金になるだけで、
どれだけ怖いか知らないのか。

俺はとても怖かったよ。
黄金が広がっていく手も、
切り落とそうとした痛みも。

でも今はそんな俺を追ってくるお前達が一番怖い。
自分の身体を黄金に変えようとするお前達が一番怖い。

この俺の右手に触って、
他の誰かが黄金病になって、
それがまた他の誰かに感染して、
ああ、妄想できる。
この『下』一帯が黄金の死体だらけになる。

ぞっとした。

なら、もういっその事。

『下』と『国』とは一か所だけ繋がっている。
それが『糸』と呼ばれる通路だ。
なんでもとても細長い通路だそうだ。

糸まで走るぞ。
もう、回収しろ、俺を。

「おい開けろ!見ろ!黄金病だ!隔離しろ!」

辿り着いた糸には相変わらず冷たそうな門が構えていた。
両側には監視カメラが付いている。
門に体当たりする如く着いた俺を瞬時に捉えた、有り難い。
ほら見ろ、と右手をカメラに向かってぶんぶんと振ってやる。
黄金だ、黄金の右腕だぞ、黄金病だ。
いいから俺を早く隔離しろ!

叫び続けた喉が痛い。
黄金に変わりつつある右手が重い。
カメラの奥が絞ったり広がったりしている。
どうやら俺の事を認知したな。

「よし、あとはこの扉を開けろ。」

俺がそう言った瞬間、カメラがそっぽを向いた。
くい、と俺が走って来た道へプイと顔をそむける。
おい、黄金病は俺一人だ、そっちに感染者はいない、
いいからさっさとこの扉を開けろ!

けれどもカメラはそっぽを向きっぱなし、
そして何かジャカジャカと音がする。

つられてカメラと同じ方向を見ると、
まだ諦めない奴らが走ってきている。

その群れの両側の壁の一面に俺の張り紙がある。
その壁だけではない、もう視界一面に俺の張り紙。

俺の両側には監視カメラ、
背中には未だ開かない冷たい門。

何故開かない、ネットで調べた時に言ってたろ、
感染者を発見した場合、
被害が広がる前に早急に『管轄課』に御連絡下さいって。

俺を追いかけてくるやつらはざっと三十人はいるぞ。
五年前の54人。そのうち回収されたのは52人。
おい、早くしろ、五年前の再現になっちまう。
早く開け、早く開けろ!

顎まで汗が通る最中、
ふと、俺の目が広がった。

迫ってくる群衆。

その周りに張り巡らされている俺の顔の張り紙。
隙間を見つけるのが難しい程の張り紙の敷き詰め具合。

そっぽを向いたカメラ。
カメラの先には群衆、およそ三十人。

感染者を発見した場合、
被害が広がる前に早急に『管轄課』に御連絡下さい。

糸の門。
門の前の俺。
俺を見つけたカメラ。
だが開かない門。

被害が広がる前に早急に『管轄課』に御連絡下さい。

辺り一面に張られた俺の顔。
開かない門。
早急に『管轄課』に御連絡下さい。

五年前は54人。
目の前の群衆はおそよ三十人。
張られた張り紙、開かない扉。
早急に『管轄課』に、

『管轄課』に、

御連絡下さい。


「    うそだろ」


下の上には『国』がある。
要するにここは『国』じゃない。

『下』はもともと『国』だったが、
ある時から『下』で暮らす人間に偏りが出来た。
結果ある時を境に『国』は『下』を切り離し、
『下』は『国』ではなくなり、

『国』に貧乏人はいなくなった。

『糸』の門の向こうからは足音一つ聞こえてこない。
ただ目の前から貧乏人達の走る音が聞こえる。


この年に『回収』された黄金病患者は47人。
黄金病は断続的に発見されています。
感染者を発見した場合、
被害が広がる前に早急に『管轄課』に御連絡下さい。


本年も御協力ありがとう御座いました。

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