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恋と鴉(終編1)

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ついぞ柴田の書く文字が変わる事は無かった。
ネットで見かける習字宣伝を疑った事もある。

「これを使えば誰もが美しい字を書けるように!」

確かそんな宣伝文句だった。
『誰もが』とはこの世の全ての人間がという意味だ。
そんな強い言葉を使っちゃあいけない。
この世には柴田と言う人間が居るんだぞ。

柴田の文字は最後まで変わらず下手だった。
代わりに、俺が柴田の文字を読めるようになった。

柴田の字が上手いか下手かと問われたら、
文句無しに下手だと言って良い。

『文字が下手』というのはどういう意味か。
この事について真面目に考える人は少ないだろう。
それもこれも柴田の文字のお陰だが、とどのつまり、
単に識字(しきじ)しにくいと言う意味だと気付いた。

日本語だけではなく、
あらゆる文字には標準と決められている形があり、
それを逸脱した形状は識字される確率が下がる。

「ふ」が「ぶ」になる為の濁点は二つ点が要るように、
「り」は左の線が右より長くてはいけない。
それらのルールは言わば識字の為の検査基準であって、
その検査基準には『中心値』がある。
その中心からズレればズレる程、
識字は難しくなる。

日本人は時にこう言われる。
キッチリした人種だと。
ほんの少しずれたり、
ほんの少し違ったり、
それらに対して悪意が沸きやすい。らしい。

本当はもっと難しい言葉で書いてあったが、
俺なりにかみ砕くとこんな感じの言葉になる。

ことさら、文字に関して言えば。
ルールの中心に近い形で書けない事が、罪だという。

けれどもし、
生まれつき、その人間が字を書く事に、
何かのハンディキャップを持っていたとしたら?

その事に気付いたのはある日の夕方頃だった。

その日は平日。
余裕無く仕事をしていると、
どうも忙しい事が格好良く思えていけない。
俺は本の編集の為に木材家具の勉強をしていた。
初めて作る本が木材家具の紹介本となったので、
写真と文字のレイアウトや項目順を考えていたが、
もはやそれらはパズルに等しかった。
先輩からも、

「答えのあるものを探す訳じゃない」

と言われたが、
つい無い筈の答えを追って、もがいてしまう。
組み合わせるレイアウトが全て不正解に見える。
誰かが「それ違うよ」と言った訳でもないのに、
無意識に「これじゃダメだ」の言葉が口を突いて出る。

その編集の傍ら見ていたのが柴田の小説だ。
先輩にも話したら良い方向に考えさせてくれる。
「内容が良ければお前が企画書作って出せ」とも言われ、
どうせなら同時並行でやってみろと発破をかけられた。

当の柴田の小説は、
ただでさえ読みにくい文字が疲れのせいで絶妙にかすむ。

「お前、電難が治まったならパソコンで打てよ」

と言ったのだが、
柴田曰く、何度も試したが必ず不具合を起こすとの事。
実際にどうなったのかなんて恐ろしくて聞けやしない。
ブルースクリーン程度なら可愛いものの、
中から煙が吹いたなんて聞けば、
もうかける言葉も無いのだもの。

「小説書いてるとな、
 頭の中のものがドバっと出てきて、
 自分一人が知らない世界に行ったような感覚になる。
 それが多分、電難が起こる一番の原因なんだ」

そう話す柴田の言葉を疑いはしなかった。
作家から聞く話でもそういうのはよくある。
電難が起こる、という話ではない。
知らない世界に云々、の下りだ。

柴田は、

「読めない字があったら遠慮なく連絡を」

と言ったので、
こちらも読めない文字に絡まる度に連絡をした。
けれども次から次へと現れる阿波踊りする文字達。
まるで束縛系彼女のように何度も柴田へ電話する。
挙句読めない文字があんまりに多いものだから、

「もう、いい加減にしろ」

と堪忍袋の緒が切れた。
誰のって、俺の。

「まともに字も書けやしないのか」

とも言った。
いや、怒鳴った。
怒鳴るのなんて久しぶりだった。
電話の向こうから柴田の言葉は無かった。
俺は気まずくてそのまま電話を切った。
初めての責任ある仕事と柴田の汚い文字のせいで、
どうしようもなく気が立っていた。
なじってくれて良い。
俺は弱い人間だ。

イライラした時の改善方法がある、以下は俺の場合。
煙草は吸わないので自販機のオロナミンCを常用する。
炭酸飲料が好きだ、特にオロナミンCは味が良い。
喉を通る発泡と美味い味に宥められて窓の外を見ると、
もう夕焼けも終わりかけだった。
廊下の上には原稿用紙が何枚も散らばっている。
オフィス内だと電話しにくいので、
柴田の原稿を持って廊下でかけていたのだが、
誰も見ていない環境と言うのが仇になった。
電話の最中に声を荒げ、持っていた原稿用紙をぶちまけ、
無言のうちに電話を切ったのだった。
明らかに感情が暴走して、
誰も見ていないのを良い事に好き放題やってしまった。
投げつけられた原稿用紙は「ごめん」とは言わない。
廊下の床も「なにすんのよ」と怒らない。
心を持つ者だけが怒り、謝り、
虚しくなる事を許されている。
辺り散らした原稿用紙を見て、ただ口からため息が出た。

今、俺はきっと怒りの感情のアップダウンで、
手元の感覚が疎かになっているだろう。
零すといけないのでオロナミンCの瓶を窓際に置き、
床に散らばった原稿用紙を拾い始めた。
するとそこに先輩もやってきて、
一枚、また一枚と俺が放った原稿を拾い始めてしまった。
ばつが悪くて「大丈夫です、いいですよ」と言ったが、

「俺も昔は同じ事をよくやったもんだ」

とだけ笑って残りの分を拾ってくれた。

「お前の声、部屋の中まで聞こえてたぞ。
 怒鳴り声なんて初めてだからびっくりした。
 何かと思って廊下出たら『コレ』じゃん。
 新刊作業で精神やられたかと思ったら、
 この字、例の友達のか」
「はい……」
「……どうした?」

その先輩の言葉に飾り気は無かった。
たった四文字、どうした、とだけ。
それを聞いてこっちも最初は言葉に詰まったが、
ため息を一つだけ吐いてみると、
思いの外スルスルと言葉が漏れ始めた。

「あいつ、昔から字が汚いんですよ。前にも言った通り。
 もう何年前だ、七、八年前かな。
 いや、きっともっと昔からそうなんです。
 これまでも誰かがその事を注意した筈なんですよ。
 あんなに字が汚ねぇんだから。
 でも変わらず字が汚い、本当に汚くて。
 この八年で字を綺麗にする努力を何故しなかったと思うと、
 何でですかね、昔から知ってる奴だからか、
 無性に腹が立って……」

チッ、と舌打ち、
ハァ、とため息。
言葉の切れ目に迷って、悪い癖が出た。
すると先輩が笑いながらこんな話を切り出してきた。

「痩せないデブって信じるか」
「はい?」
「痩せないデブ」
「暴飲暴食する人の話ですか」
「体質の話だ。
 世の中のデブには二種類いるらしい。
 痩せようとしないデブと痩せられないデブ。
 食べたエネルギーを必死に体内貯蔵する遺伝子があると、
 ちょっと食べるだけでもデブになるらしい。
 それに成長期や精神状態とかも要因になって、
 不思議とデブに、太ってしまう人間はこの世にいる。
 俺は昔からやせ型だった。
 親父もオフクロもそういう体型だったから遺伝だ。
 ガキだった頃は太ってる奴にデブって言ってからかった。
 大人になってからだ、
 そういう遺伝子的要因とかがあるって知ったのは。
 後悔がある。俺が子供の頃にからかった奴らに、
 今はもう謝れない。謝る機会がない。
 言葉ってのは聞き手、喋り手にもよるが、
 少なくとも、俺の中でデブは悪い言葉だ。
 だから、もうデブとは言わない事にしている」
「……でも先輩、
 今めっちゃ話の最中、デブって」
「うん、久しぶりに言った」
「駄目じゃないですか……」
「ここには俺とお前しかいないから」

夕陽がかった会社の廊下、
床も壁も、ただの物。
心を持つのは先輩と俺の二人きり。

「その友達、電難とかいったっけ。
 もしかしたら、
 綺麗に書きたくても書けないのかも知れない」
「……文字を?」
「聞いてみろ。
 もしそうなら、今ならまだ謝れる」

煙草も吸わずに戻る先輩の背中から、
幽かにコーヒーの匂いだけがした。
今日何度見たか判らない柴田の連絡先。
慣れた手が、しかしぎこちなくスマホをなぞると、
電子的な呼び出し音が聞こえた。

でも、聞こえるのは呼び出し音だけ。
柴田の声は聞こえてこない。

そりゃ、そうか。
こっちが一方的に怒鳴って、切ったんだ。
またこちらからかけて出ろってのも、虫の良い話だ。

何度目かも数えてない呼び出し音を絶つと、
飲みかけのオロナミンCを空にして、
ようやく部屋へと足を動かした。
今ならまだ、休憩の範囲内で済む。

けれど、呼び出し音。
今度は俺を呼び出す音が、スマホから鳴る。
表示は柴田、柴田光司。

さっき飲んだ筈なのに急に喉が渇く。
けれどオロナミンCはさっき飲み干した。
このままの喉でやるしかない。
確か前もそうだった、
柴田、お前は前もそうだった。

「  もしもし」
『あ、もしもし』
「柴田」
『ごめん取れなくて、ちょっと落ち着かせてて』

そうだ、柴田は心が昂ると――。

「いや、こっちも急にかけて悪い、
 っていうか、急に切って悪かった、
 怒鳴って悪かった。」
『いや、なんていうか――』

柴田の言葉がぷっつり切れて、沈黙が流れる。
言葉を探しているのが判る。
沈黙の向こう側で、柴田、お前は今どんな顔をしている?
すまん。

『俺の字、本当に汚いんだな。
 忙しいのに面倒な事させてごめん』
「いや、  しょうがない」
『書いてる時はな、普通に書いてるように見えるんだ。
 綺麗な字を書いてるように俺からも見えるんだよ。
 でも目を離してまた見直すと、その、 』
「……綺麗に書いたはずの字が、この字になるのか」
『  うーん』
「電難のせいか?」
『いや、それは判らない。
 病院にも行った事があるんだ。
 でも脳にも何にも異常なしって言われた。』
「現代科学じゃわからないって事だな」
『そんなカッコいいモノでもないけど』
「いや、そういう事だよ。
 悪かった、さっき怒鳴ったのは俺が悪かった」
『いやいや』
「悪いけど今別の仕事もやっててさ、
 また後で連絡するよ」
『分かった。あのさぁ』
「ん」
『いや……佐々岡さんも、イライラしてたのかなぁ』
「ああ、佐々岡。確か清書してくれてたんだよな。」
『ついこないだも送ったんだけど』
「ついこないだ?
 おま、まだ佐々岡と繋がってんの?
 ていうかまだその、やりとりしてんの」
『うん……』

さっきのとはまた別の沈黙だった。
この沈黙は判るぞ、柴田。
お前、少し恥ずかしがってるな。

『俺が原稿送ると佐々岡さんさぁ、
 必ず手紙で返事をくれるんだよね。
 読んだ感想で、毎回凄く褒めてくれるんだよ。
 引っ越しする時にも必ず報せをくれてさぁ。
 ……俺、どうにかして字を矯正した方がいいかなぁ、
 どう思う?』
「どうって…………」

思えば恋愛には疎遠な人生ばかり生きてきた。
オシャレにも気を遣ってきた方じゃない。
友達と服を買いに行く事なんてなかった、
恋愛相談をされた事もなかった。

昔に読んだ恋愛系の漫画の一端が思い出される。
初めてのデートだからって主人公が友達に、
ねぇこれ似合ってると思うか?と尋ねる場面だ。

俺には無縁の青春だった。

けれど服は字に変わり、
主人公は柴田になり、
ヒロインである相手は佐々岡か?

ああ柴田お前、
今まさに青春してんのか。

「 ははっ、知るか」
『ええっ、そんな言い方せんでも』
「イヤ御免ウソウソ、そうだなぁ――」


【『識字される』という言葉】
この物語中、「識字される」という言葉を用いたが、恐らくこれは正式な言葉ではない。
識字(しきじ)とは能動的な言葉であり、文字を読み書きし、理解できる事、またはその能力の事を意味している。この物語中の使い方では文字側が人間に「理解される」意味合いで使っており、これは読者側に強引に理解を求めている言葉となっている。
『識』という言葉自体が人間の行動に沿うものなので、もし作るなら『認字』が「文字側が理解される」という意味の言葉ではふさわしいかも知れない。無論、この言葉も世の中には無い。世の中にない言葉を急に使っても誤解と理解齟齬を生むので、今回は苦肉の策で『識字される』という言葉を使うに至る。

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