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障害は恥ずかしいことなのか?隠そうとする社会を叩き壊したい!

皆さん、こんにちは。
岩尾です。

今日は腹に据えかねることがあって、ちょっと思うところを書こうと思います。

日本は、障害を隠そうとする傾向が強いなと感じます。
隠そうとする、見ないようにする、見せないようにする。
そうした方がいいに決まってるというクソッタレな意見が多数派な気がするのです。

そして、学校も特別支援学校として分かれていることが多い。
これもある意味隠されている状態で、会う機会がなかなかないので知ることもできない。

江戸時代は、一緒に過ごしていたという記録もあるし、一方では、ないがしろにされていたという記録もあります。どちらもあったんだろうなと思います。
村八分もあったようですけど、それでも共生していた部分もあります。

戦後、おそらく「家族」をつぶしていかれたのが、マイノリティを排除していく方向にもなったのかなとそんなことを思いました。

かく言う僕も、小さい頃を思い出すと、知的障害を持つ人に対して、あまり見ない方がいいという感覚があったことを覚えています。
言い訳はしませんが、正しく学ぶ機会がなかったのも事実だし、社会がそういう風潮だったんだろうと思います。
子どもはまだ自分でそこまで考えられないので、身近な風潮に左右されることは多いですよね。

難聴に関して言うと、難聴者本人が、「聞こえないから恥ずかしい」と言っているのをSNSで見たこともあります。
補聴器店で、難聴児の親が、「見えない補聴器にしてくれ」と言っていたというのを知り合いから聞いたこともあります。
子どもが難聴だけど、いじめの原因になるかもしれないから補聴器はつけさせたくないと言っている親の話も聞いたことがあります。
そして、自分が聞こえないことを家族や職場などにしか伝えられてないという人もいます。

これは、難聴や障害は恥ずかしい、隠したい、隠した方がいいという気持ちの表れですよね。

でも、こんなふうに考える人が悪いんじゃないと思うんです。

今の社会は、障害は恥ずかしい、隠した方がいいという観念が、無意識的に根付いているように思います。
言葉にはなってなくても、おそらく深層心理には、そういう価値観が根付いてるんだろうと思います。

だから、聞こえないことが恥ずかしい、補聴器をつけていることが恥ずかしい、補聴器をつけている人をあまり見ない方がいい、あまり見られない方がいいだろうと感じてしまう社会になってしまっているんだと思うのです。

でも、これはなんとなくの空気です。
根拠も何もありません
ただ、周りに難聴の人がいない、接する機会がないということで、知らないだけなんです。
知らないので、何となくの空気に流されて、そのように思っているだけなんです。

ハンセン病のことを少し調べたら、同じようなことが書かれていました。

ハンセン病はもはや完治する病気であり、ハンセン病回復者や治療中の患者さえからも感染する可能性は皆無です。それにもかかわらず、社会の無知、誤解、無関心、または根拠のない恐れから、何千万人もの回復者およびその家族までもが、ハンセン病に対する偏見に今なお苦しんでおり、こうした状況を是正する社会の取り組みは遅れをとっています。

日本財団HPより

社会の無知、誤解、無関心、根拠のない恐れ

難聴の啓発をする中でも、まさに、これを痛感しています。

「障害は、表に出すものではない、隠した方がいいだろう」

こういう無知な誤解、根拠のない恐れを抱いている人がいかに多いことか。
しかも、教育に携わる者、しかも特別支援教育に関わる人でさえこういう思考の人がいるようです。

そんな人は学び直してほしい。
それでもわからなければ、特別支援教育に関わらないでほしい。

今、PTAの広報係として広報誌を作っているのですが、2年前に新設した娘が通う難聴学級を紹介してもらえればと、特集ページに提案しました。
いいねと言ってもらえて作成していて、そこは心から感謝しているのですが、先生に確認してもらってから雲行きが変わりました。

「名前と写真は一緒に出さない方がいいのでは?」

これは、言いたいことはわかります。
個人情報が特定されるので犯罪に巻き込まれる可能性もあるのでということですね。

もちろん、可能性はあります。
でも、名札をつけたり、靴に名前を書いたり、友達が名前を呼んだりしているわけなので、「名前を呼ばれる」というリスクは、広報誌に載らなくても既にあります。
うちの学校は、登下校時は名札はつけなくてもいいとなってますが、つけてもいいんです。
だから、そこは各家庭の判断なんですよね。
うちはつけてます。

だから知らない人についていってはダメだというのは徹底していますが、こんなことはうちにとってはリスクでも何でもありません。

娘は聞こえにくいので、後ろの車の音に気付かないことが多々あります。
この時点で、聞こえる子の親よりは、覚悟を持って学校に行かせてるんです。

広報誌に名前が載ることで犯罪に巻き込まれる可能性と、
音が聞こえないために交通事故に遭う可能性、正確な計算はしてませんが、どう考えても交通事故に遭う可能性の方が遥かに高いでしょう。
地域の広報誌を見て、わざわざ難聴の子を誘拐しようなんていうクズもそうそういないんじゃないでしょうか。
もちろん0ではないですけどね。

それにうちの子は、すでにテレビに顔と名前も出てます。
そんなことは、難聴の啓発活動をしているうちにとってはリスクでも何でもないんです。
それ以上のプラスの効果のために写真と名前は出したいのです。

なぜか?
難聴は、そもそも知られていないんです。
だからこそ学校のみんなにも、地域の人にも知ってもらいたい。
知ってもらうのに一番いいのは、難聴を説明することではないんです。
難聴の子と遊ぶことが、一番難聴のことを知れます

名前があれば(下の名前だけです)、声をかけやすくなる。
「難聴学級の子」と呼ばれるより、「難聴学級の〇〇ちゃん」と呼ばれてほしいです。
娘にはいろんな人と触れ合って遊べればいいし、他の子には、難聴の子のことをぜひ知ってほしい。

「なんだ、普通に話せるんだ」
「あ、これは聞こえないんだ」
「こうすれば伝わるんだ」

触れ合うことで子どもたちはすぐに順応できます。

この経験を持つ子が増えていけば、大人になってからも難聴だからと仕事は補助業務だねなんて言わずに、もっといろんな仕事ができると、普通にわかる人が増えてくるはずです。
そうなると、より自分らしい人生を過ごしていけるはずなんです。
今は、差別経験ありと答えた難聴者が、何と87.3%もいるという状況です。

そして、難聴や障害は隠されている方がいいよねという何となく強く根付いている空気。
今でも実際に難聴であることが恥ずかしいと言っている人もいるし、恥ずかしいと思っている親もいる。
恥ずかしいから補聴器をつけたくないっていう子もいる。

だからこそ、全然恥ずかしいことじゃないんだよ。
オープンにしていいんだよという前例を作っていきたい
んです。
だから、写真と名前を出したいんです。
何ら恥じることはない。
みんなと一緒に普通に生活している一人の人間なんです。
そういう人がオープンに出てくることで、このクソッタレな空気を叩き壊せるはずなんです。

こういう話をPTAでもしたんですが、

・最近は個人情報も厳しくなっているので・・・
・いろんな人がいるので、個人情報が出てるじゃないかとクレームを言う人もいるんです
・これを見た人が、ここの難聴学級に入ると、自分も名前と写真を出されるかもしれないと思うかもしれない
・他の支援級もあるから、そこの人たちも、自分たちが今度は写真と名前を出させられるかもしれないと不安になるかもしれない。この子たちも守らなきゃいけないので

などなど、いろいろ言われました。

いや・・・もう・・・
絶句です・・・
何から突っ込んだらいいのか・・・
こんな発想になること自体が本当に信じられません。

念のため、個別に突っ込むと、
・最近は個人情報も厳しくなっているので・・・
⇒いや、個人情報保護法の骨子は2005年から施行されてます。3年ごとに見直してますけど、骨子は約20年前から同じです。本人の同意なく個人情報を出してはいけないんです。当然、同意があればOKです。

・いろんな人がいるので、個人情報が出てるじゃないかとクレームを言う人もいるんです
⇒個人情報を出してはいけないのは、本人の同意なしにです。未成年なので保護者の同意が必要ですが、保護者は同意してるんです。何も問題ありません。クレームが来てもそう言えば済む話です。しかもこんな無知なクレームをしてくる人がそんなに多くいるとは考えられません。

・これを見た人が、ここの難聴学級に入ると、自分も名前と写真を出されるかもしれないと思うかもしれない
⇒こうなると何でもありですね。何とでも言える。これこそ個人情報保護法があります。本人の同意なしに写真も名前も出してはいけません。嫌なら拒否すればいいだけです。学校での写真撮影も同じようにやってるはずです。

・他の支援級もあるから、そこの人たちも、自分たちが今度は写真と名前を出させられるかもしれないと不安になるかもしれない。この子たちも守らなきゃいけないので
⇒個人情報保護法で守られます。そして、本件に関係ない子たちは守るけど、本件の当事者の希望は聞いてくれないんですか?

実際にこのように反論しましたけど、これについては相手は黙ったままでした。
まあ、反論しようがありませんけどね。

そして、これらは、支援級の先生や教頭から言われたようなんです。
それで、すっかり先生の意見に感化されたようですが、支援級の先生がこういう考え、学校の先生がこういう考えというのが、本当に危機感を覚えます。

まあ、クレームが来るのが嫌だ、手間をかけたくないというのがあるのはわかります。
でも、上記の言動からすると、やっぱり難聴の子(障害を持った子)を前面に出さない方がいいんじゃないかという、隠した方がいいという空気をものすごく感じるんです。

そしてもう一つ。
今回感じた大きな嫌悪感
それは、僕の話を聞いてないということです。

あれだけ反論しても、
「やっぱり写真と名前が一緒に出るのはですね・・・」
と、繰り返してくるんです。

それで、もう一度同じことを繰り返して言うんですけど、僕の言ってることが頭に入ってないんです。
聞いてないんです
完全に耳を通り抜けて出て行ってしまってる

このとき、痛烈に感じました。

ああ、この人たちは、こちら側に回って見ようとしてくれてないんだと。

自分の側、自分が立っている場所からしか物事を見てないので、いくら僕の側からの話をしても届かないんです。

それはそうですね。
そちら側から見ていては、僕の言うことは理解できないですよ。

壁のこっち側で「子どもがいるんですよ」と言っても、壁の向こう側にいる人は子どもが見えないので、「いや、子どもなんかいないでしょ」となってしまいますよね。
向こう側から見ている限りは
壁を回って見れば、「あ、子どもがいたんだ」と見えるわけです。

壁の向こうに回らないで話を聞いてるだけだと、そりゃあ、話は入ってきません。

結局、あちらは結論ありきでした。
話し合う気はなかったんですね。
話してみてよくわかりました。

これだけのことを言ってるのに、「岩尾さんの熱い思いはわかりました」だけです。
そして、僕を説得するために用意した題材を繰り返すだけ。
全然筋が通ってないので説得もクソもないんですけどね。

最後には、「これはPTAが出す広報誌なので、PTAの方針で決めさせてもらいます」となりました。

ちょっと待ってください。
読売新聞の方針なので、朝日新聞の方針なので、毎日新聞の方針なので、記事の当事者の希望を無視して掲載していいんですか?

いいわけないですよね。

意図と違う書き方をされたと問題になることもありますが、そうならないために、事前にしっかり摺り合わせるわけですよね。

自分の都合で記事の当事者の意向は無視する。
広報でも何でもないですね。
訴訟レベルです。

よっぽどもうやめようと言いたかったですけど、そこは押さえました。

そして、
「じゃあ、家族は名前の掲載を希望しましたが、PTAの判断で名前は不掲載としましたと一筆書いてください」と依頼しました。

これも、「検討します」なんです。
どこまで当事者のことを見ないつもりなのか。

なぜこの一文が必要なのか?
僕は、言葉のかけはしの活動で、難聴がもっとオープンに前向きに捉えられるように活動しています。
もちろん、オープンにしたくないという人を無理やりオープンにさせようというものではなく、オープンにできる人からオープンにしていき、そういう風土を作りたいんです。
その本人が、娘の名前を隠してるんじゃないかなどと勘違いはされたくありません。
はっきり言って営業妨害です。

そして、娘が大きくなって、名前の載ってない広報誌を見たとき、もしかすると
「お父さんは昔は隠したかったのかな」
などと思ってしまうかもしれません。

こういう広報誌のことをいちいち話題にはしませんし、ふと思って娘の胸の内に秘められたら、娘に悲しい思いをひそかに抱かせてしまうかもしれないんです。
そんなことにはしたくないんです。

うちの家族以外にはどうでもいいことですけど、うちにとっては重大なことなんです。
親二人、子一人です。

これも言いましたけど、「検討します。会長に確認します」でした。

そういえば、別件でポロっと
「これは、会長もいいって言ってたんでこのままいきます」
と言っていました。

え?会長の一存なの?
僕は会長と一言も話してないんです。
こっちに回って見ない人の又聞きの説明では、僕の真意は1%も伝わってないでしょう。
仮に100%真意を伝えられても、こっちに回って見ようとしない人ならわかりようがありません。
会長がどちらかわかりませんけど、僕が会長で、会長が決定権を持ってるなら、本人に直接話を伺ってから決めますね。
なぜなら、これは重要な一件で、おそらく又聞きではよくわからないだろうと思うんです。
でも、軽く考えてるなら、軽く決定を下しますよね。

だから会長は軽く決定を下したんでしょう。
隠した方がいいよねという空気の元でね。

状況による推測の域は出ませんが、そう考えると本当に悲しくなりますね。
本件に関する重さがまるで違うんですよね。

周りの理解がないことには、ちょくちょくぶつかってきました。
保育園の時は、担当保育士で全く理解してもらえない人がいました。
それは、その保育士自身の問題だと思っていました。

今回は、個人の問題というより、この隠そう隠そうとしている空気の問題を強く感じました

この絶望感、理不尽さへの憤り、やり場のない怒りは、難聴当事者の方が感じるそれとは比べるべくもありませんが、少し触れたような気がしました。

こんなことが重なれば、それは攻撃的にもなるでしょう。
聞こえる人間は全て敵だと思ってしまう人が出たとしても無理はないなと感じます。

もちろん、同じ景色は見ることはできません
でも、あちら側に回ってから物事を見ようとすることこそが大切なんです。
同じ側から見ることで、理解することはできるはずなんです。

なぜそう思っているのか?
なぜそうしたいのか?
これにどんな意味があるのか?
そういったことが理解はできると思うんです。

ただ、共感はできないこともあるでしょう。
それが自然で当たり前
だと思います。

あっち側にいるままでこちらの言っていることを聞いているだけでは、こちらの考えは全く理解できないでしょう。

僕が名前を隠したと、周りからも娘からも誤解されるかもしれないと思っていることは、
あちら側から聞いているだけでは到底理解できないはずです。
バカじゃないのかと思うかもしれません。
たかがそんなことぐらいでと思うかもしれません。

でも、こっち側に回って見れば、少しはわかると思うんです。
自分はそこまではしないかなと思ったとしても、僕がそれを重要視していることはわかると思うんです。

それが大事なんです。

当事者側も、聞こえる人間に聞こえない気持ちは絶対にわからないと言っているだけでは、やはり溝は埋まりません。

わからないのは当たり前です。
でも、わかろうとすることが大事で、
わかろうとしてくれていると受け止めることが大事です。

向こう側から眺めているだけの人間の何と多いことか。
そして、それが正義だと思っている。
それが共生だと思っている。

ふざけるのもいい加減にしてほしい。

せっかくこっち側のことを説明する人間がいるんだから、
僕が説明してるんだから、
こっち側に回って見たらいいじゃないですか。
聞いたらいいじゃないですか。

こっち側には回らないくせに、向こう側から、
共生って大事よね
障害のあるなしに関わらず一緒に過ごしたいよね
難聴のことを知ることって大事よね。

反吐が出る!

いい人に見られたいだけやないか。
気づかってるふうに見えればいいだけやないか。
それじゃあ何も変わらないんよ!

中にはいますよ。
難聴に全く関わってないけど、ふとしたことで聞こえない人と知り合った。
聞こえない友達とどうコミュニケーション取ればいいんだろう?
こっち側に回っていろいろ話を聞いて、自分も何かしたいと動いてる。
ここまではなかなかできることじゃないです。
心底敬意を表します。
そんな人もいます。

別に活動までしなくていいんです。
ただ、まずはこっち側に回って景色を見てほしいんです。
こっち側に回って話を聞いてほしいんです。

常にマジョリティの場所からしかこちらを眺めない、そんな立ち位置は叩き壊してやりたいです。
障害は隠すのが普通でしょみたいな空気は粉々に叩き壊したいです。

ぶっ壊しましょうよ!
そんなクソッタレな社会は!

これでも随分言葉遣いには気をつけたつもりです。
本当はわめき散らしたいぐらいムカついてます。

これだけ話してもわかってもらえない悔しさ。
自分の無力さが情けない。
なぜわかってもらえないのか?
日本語が通じない感覚です。
意味がわからない。

だから、なぜか考えて言葉にしました。
今回、言葉にできて、一つの鍵がわかった気がします。

多くの人に読んでもらいたいです。
かなり長いですけど。
読んでもらって、一人でも、こっち側に回って見てみようとしてくれる人がいたら、本当に嬉しいです。
少し救われます。

少し落ち着きました(笑)
気を取り直して、この空気を変えていきたいと思います。

幸いなことに、同じPTAでも、他区のPTAの方でこっち側に回って見てくれる方もいました。
学校が全てダメなわけではありません。
共感してくれるところから、無知な空気をぶっ壊して、本当の共生社会に戻していきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。

言葉のかけはしの記事、活動に共感いただきましたら、ぜひ、サポートをお願いします! いただいたサポートは、難聴の啓発活動に使わせていただきます。 難聴の子どもたち、難聴者と企業双方の発展、そして聞こえの共生社会の実現のため、どうぞよろしくお願いします!