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障害者は子どもを産んではいけないのか?

最近SNSに投稿されていたものが目に留まり、ちょっと思うところを書いてみたいと思います。

障害者は子どもを産んでいいかどうかというテーマで、「だめでしょ」という投稿に、同意見のコメントがあふれていました。
ものすごい数の同意でした。

もちろん、そういう考え方の人の投稿なので、同じような人が集まってくるんだとは思うんですけど、あまりの同意の数にちょっと恐ろしくなりました。

もっともらしい理由も書かれています。
「自分たちで育てられないならだめじゃないか」
「周囲のサポートありきで考えてるならだめじゃないか」
「生まれてくる子が幸せと言えるか?」
「その子どもは障害を持って生まれる可能性が高いんじゃないか」
「自分の苦労を子どもにさせるのか」
などなど・・・

読んでいて吐き気がしてきました。

優生思想だ何だと言う前に、ここまで日本人の心、精神性というものが蝕まれてきたのかと、いよいよだなとも感じました。

別に、その意見を否定する気はありません。
それぞれの考え方があるので。
でも、あまりの多さと、その浅はかで他人事の言葉には吐き気と共に、危機感を覚えました。

まさに安全地帯から傍観しているに過ぎない言葉で、その本質を何も考えず表面的に見ているだけなのか、
同調して、そっちに寄った意見を投稿してしまったのか、
それはよくわからないけど、こんな言葉をあんなにもの数投稿してしまっているのがあり得ないなと思いました。

最近よく上がってくる自己責任という考え方がベースになっているのか?

何でもかんでも自己責任。
自分でやったことが自分の結果なんだから、自分で何とかするべき。

人って、いつから自分一人だけで生きれるようになったんでしょうね?
どんな人でも、誰かの助けなくして生きていけませんよ。

子育てだって、そもそも日本はおじいちゃんおばあちゃん、近所の人たちで育てるという文化だったんです。
それを戦後ぶち壊されたんですけど、一部の地域では、「子育ては地域育てしよう」と旧き良きやり方を見直そうという動きも出ています。

そもそも、子どもは何のために産むのか?
愛する伴侶を得た結果でしょう?
何のためではなく、愛し合った結果です。
(もちろん、意に沿わない妊娠などはありますが)

生物の本能を生物学者さんが書いている本で勉強させてもらったことによると、生物の一番の本能は子孫を残すことだとのこと。

これを読んで、なるほどと、目から鱗が落ちました。

だって、種族が繫栄することこそが生物の望みですよね。
それまで僕は生物の一番の本能は生存欲求だと思ってましたけど、自分一人だけ生き残ったとしても、子孫が残せなかったら種族が終わってしまう。
本能としては、子孫の繁栄が一番大きなものですよね。
だから、カマキリは交尾の後、オスがメスに食べられる。
子孫を残す方が最優先だからですね。

つまり、愛し合う2人が一緒になった結果、子どもを産みたいとなるわけですよね。

もちろん、産みたくない人もいるでしょうけど、産みたくなる人も多いわけです。

それを、産んで良いとか悪いとか、なぜ考える必要があるのか?

もちろん、本音部分で考えてしまうことはあるかもしれないけど、それをさも自分は正しいと言わんばかりに全世界に発信するというのが、ここまできてしまったのかと本当に悲しいです。


少し前に、障害を持つ人とその息子さんが出ているテレビも話題になりました。
その障害を持った親御さんは、自分の面倒を見てもらうために子どもを産んだというようなことを言われていて、息子さんは、それに対して、言葉としては少し反抗するようなコメントをされていました。

確かに、僕の考えで言うと、この親御さんが子どもを産んだ動機には、言葉の上では賛同できませんが、おそらく、いろんな大変なことがあったと思うんです。
それで、そういう思いが形成されたとしても不思議ではないし、そういう経緯があったことを踏まえると、その動機を否定するつもりはありません。

ただ、その思いだけではなかったと思いますし、息子さんの本当の思いはどうだったのか、本人でないとわかりませんが、そういう個別の状況に第三者が頼まれてもないのにあれこれ批評することはできません。

また、障害を持つきょうだいのいる方が、何度も襲われて大変な思いをして、過激な発言をされていたりすることもあります。
それも個別の事情で、そのことに第三者がズケズケとコメントするのは違うと思いますが、一般論として、障害をもつ人が子ども産んでいいかどうかなど、論じること自体が悲しいと思うわけです。

個別の事情に関しては、個別に考えていく必要があると思います。


ところで、僕は落語をやっていますが、落語は江戸時代の庶民のくらしを描いたものです。

その中に、与太郎さんという人物がよく出てきます。

落語の人物は、ある特定の人ではなく、「与太郎のような人」という位置づけで、いろんな噺に与太郎さんは出てきますが、噺ごとに与太郎さんは違います。
違いますけど、基本は与太郎さんはおバカなキャラクターなんですね。

おバカなだけの与太郎もいれば、
おバカだけど仕事の腕が良い与太郎もいます。
おバカだけど、相手をちょろまかすような与太郎もいます。

そして、この与太郎さん、おそらく知的障害だったんだろうと言われています。

他にも、そそっかしい八っつぁんとか、忘れっぽい甚平さんとかもいますが、今でいう、ADHD(注意欠陥多動症)だったんだろうと言われています。

昔もいたんですね。

で、その人たちが、落語の世界ではみんな同じ目線で生活している様が描かれてるんです。

与太郎がバカやっても、
「お前、何やってんだよ!」
とは言いますが、
「しょうがねえなあ。早く来いよ!」
と、排除しないんです。

一緒に生活してるんです。
落語の噺を聞けばわかります。
排除してないんですよ。

家族もそうですし、近所の人たち、友達もそうです。

これって、生物の本能に基づく生活だなあと思うんですよね。

ただ、難聴の人はほとんど落語の噺には出てきません。
一説によると、聞こえない人はひどい仕打ちを受けていたということも聞きます。

江戸時代は、補聴器もなかったですし、手話もありません。
コミュニケーションが取れない人は排除されていたのかもしれませんし、落語は滑稽話なので、笑えるようなことがなかったので出てきてないだけかもしれません。
真相はわかりませんが。

難聴の人に関してはどうなのかはわかりませんが、今わかっていることに関して言えば、どんな人も、みんな同じ目線で生活している落語の世界観が僕は好きです。

これこそ、目指すべき世界じゃないかなと思うんです。

この時代に、与太郎は子どもを産んでもいいかどうか?なんて話題にも上がってないんだろうなと思います。

日本が強い国だったのは、家族のつながりが強かったからです。
日本だけではなく、他国でも家族がしっかりつながっているからこそ、強い国家になっていくわけで、この家族をつぶす活動をしていた団体もあるわけです。

まんまと日本もやられてしまってるわけですけど、そういう家族観を壊され、お互いに助け合うという心が壊され、自分だけ良ければいい、五体満足でない人は不幸だ、生まれてくるべきではないなどという言葉が平然と流れてくるようになっていることに本当に危機感を感じます。

ちなみに、お互い支え合うグループの方がビジネスでも成果を出しているという研究は数多くあります。
スポーツもそうですね。

スポーツなんて、ドリームチームという個が抜きんでた人たちを集めてもなぜか勝てなかったということは良く目にします。

自分さえ良ければOK
何らかの障害があるのは不幸だ。そんな人を増やすべきではない。
周りに迷惑をかけるのはやめるべきだ

安全地帯から見える風景でしかものを考えられないと、幸せはやってこないでしょう。

その安全地帯も、いつまでも安全地帯ではないです。
安全地帯と危険地帯と分けて考えていると、いつか自分が危険地帯に行くことも十分あり得ます。

でも、全てをつながった大地として見て、共に生きる仲間として同じ目線で生活すれば、どっち側もないんですよね。
その方が何倍も楽しいし、幸せだと思うんです。

そう考えると、僕は難聴の理解を拡げる活動をしてるんですけど、家族のつながりとか、壊された日本人の精神性とか、そういうものを取り戻さなければ、理解も拡がりにくいのかもなとも感じました。

その中で、戦後壊された教育勅語は大きかったように思います。
この教えがなくなってしまったから、自分だけ良ければいいんだとか、自分の解釈だけで相手を判断して自分だけが正しいと思い上がる人が増えているのかもしれません。

教育勅語って、これが日本を軍国主義に持っていかせたとか、いろいろ難癖をつけられて忌み嫌われるものにされていますが、中身を見たら、これほど人の生きる道を説いたものはありません。
まさに日本人の精神性、心の教えだと思います。
難しいことはなく、誰でもわかるものです。

最後の一つは、人によっては嫌う人もいるかもしれませんが、これは国のために死ねと言ってるのではなく、国の一大事にはみんなで団結しましょうという意味で、国を守るというのはやはり大事なことです。
大切なのは、どう守るかですね。

明治神宮さんが書かれてるのがわかりやすかったので引用させてもらいます。

教育勅語の12の徳目

孝行:親に孝養をつくしましょう
友愛 :兄弟・姉妹は仲良くしましょう
夫婦ノ和 :夫婦はいつも仲むつまじくしましょう
朋友ノ信 :友だちはお互いに信じあって付き合いましょう
謙遜:自分の言動をつつしみましょう
博愛:広く全ての人に愛の手をさしのべましょう
修学習業:勉学に励み職業を身につけましょう
智能啓発:知識を養い才能を伸ばしましょう
徳器成就:人格の向上につとめましょう
公益世務:広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう
遵法:法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう
義勇:正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう

教育勅語|明治神宮

いかがですか?
めちゃめちゃ真理じゃないでしょうか?
子どもに覚えてもらいたいことだと感じる人は多いんじゃないでしょうか?

今のSNSを見ていると、つくづく、これが壊されたなあと感じてしまいます。
もしかしたら、綺麗ごとだと片付ける人も増えているのかもしれませんが、でも、これは人が生きていく上で、本当に大切な教えだなと思うんです。


僕は、ただ、難聴の娘が、難聴の子どもたちが、難聴の子を持つ家族が過ごしやすくなれるといいなと思いこの活動を始めたのですが、思わぬところで、大きなものにつながっているなと感じました。

でも、この心を取り戻すことができれば理解も拡がるはずです。

まさか教育勅語がオチになるとは、書き始めたときに全く思ってなかったのですが、思わぬところにつながっていきますね。

「家族仲良くし、友達を信じ、言動を慎み、お互い助け合いましょう」

この心だけでもまずは取り戻せると、SNSでも、良い情報共有ができるはずですよね。

僕は僕の分野でのアプローチしかできませんが、つながっているものを意識すれば、また違った有効な理解促進もできるのでは?とも思いました。
引き続き、難聴の理解を拡げていきます!

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