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3月28日 僕のキョナラと俊成女の幻想

 京都、奈良を移動する機会があった。

 昼間は渋滞が激しくなっており、人が動き始めていることを感じた。しかしまだ朝や夕方は少ない。晴天の下の静かな古都で、満開の桜に触れた。

(宇治・平等院鳳凰堂と桜)

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(奈良・東大寺大仏殿と桜)

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 これだけの観光地でも、すでにいくつもの観光施設が廃業に追い込まれたという。ひたすらに美しい桜は、どこか作り物めいた静謐をまとっていた。

咲き満ちて人待ち顔の桜花木の下風は吹かずもあらなん

☆ ☆ ☆

  花見もできないなら、幻想を歌おう。

風かよふ寝覚めの袖の花の香にかほる枕の春の夜の夢
     (『新古今和歌集』112 皇太后宮大夫俊成女)

 女性視点で「かよふ」存在との「寝覚め」が歌われるのだから、男女の夜の営みを想像させる。移り香ももちろん一役買っている。艶な歌というやつだ。

 「かほる」が難しい。
 まず「かほる」は「袖が花の香に薫る」という述語としての仕事と、「花の香りに薫る枕」という連体修飾語としての仕事を同時に果たしているということを確定しよう。では一体どちらが歌の主となる文脈なのか。

 日本語の性質からして、後に語られる方が主だろう。前の「袖が花の香に薫る」は比喩のような働きをする。しかしその袖が薫る様は、艶なる風情を付与された作中現実として、重みを持たされている。主文脈に比べても十分な重みだ。だから僕は主文脈に感覚の焦点を絞り切れない。

 袖の香りと枕の香りとは、傾きを確定できない天秤のように揺れながら「春の夜の夢」にたどりつく。詩や和歌では、夢はしばしば越境し、現実に薫りを残す。しかし今回は果たして夢由来なのか、それとも風の残り香か。
 夢見心地のまま、不分明のまま、歌はぼうっと終わっていく。
 このあいまいさこそ、俊成女のねらいとしたところだったのではないだろうか。

風が私の閨を訪れる
私はその風に撫でられ、目を覚ます。すると私の袖は
風に浸され、花の香りに
薫っている。それと同じ香りに薫る私の枕。
枕を薫らせるのは、たぶん春の夜の夢なのだけれど。


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