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3月14日 息子のハワイと式子内親王の開花宣言

 日曜だ。

 7歳の長男は最近、公園の遊具制覇に挑戦している。去年まで高くて登れなかった塔。足元が不安で渡れなかったネット。あちらこちらの公園にいっては、次々に挑む。 

 大方は制覇できるのだけれど、時々あきらめるものもある。落下と痛みの可能性を想像してしまう場所には尻込みしてしまうようだ。それらを下から眺めながら、訳知り顔で「これは8歳になってからだな」とか批評している。

 今日の公園の制覇率は95%だった。ネットのタワーの最上段(下から四段目)は、10歳になったらいけるらしい。視野が広くて結構。ゆっくり大人になりなさい。

 帰る前にかき氷を買った。長男はそれを、頭上に掲げている。

「食べないの?」
「太陽もらってかき氷を溶かしてるんだよ」

 かき氷を溶かして食べるという行為はともかく、太陽をもらうってのはなかなかお洒落だな、と思った。

咲き初めし桜の午後に太陽をもらいて青きハワイを溶かす 

☆ ☆ ☆

 桜は咲く前の期待から歌になり、咲き始め、満開、落花の予感、落花…と続いていく。

 今日は『新古今和歌集』の咲き始めの歌を見てみよう。

いま桜咲きぬと見えて薄曇り春に霞める世のけしきかな
                 (83 式子内親王)

 今、桜が咲き始めた。どこにあるどんな桜だろうか。
 詠者は姫君だ。姫君が用意した本作の女も、京の屋敷にいるだろう。女は脳裏に、都から遠い山のあたりの桜を浮かべている。

 なぜ薄く曇るのだろう。いや、曇る様子に疑いはない。作中の実景として薄く曇っているのだ。そこから桜が咲いたと推しはかっている。であれば問いは、薄く曇った様子と桜の開花とは何の関係があるのだろう、だ。

 薄く曇るのは天だ。そして「春に霞める世のけしき」と続く。二つの景色はセットではないか。だとすれば式子内親王、視線を上と下に分けている。  

 上は天、薄く曇っている。下は世間の様子。春が来たことで霞んでいる。
 下が春の到来を示すなら、上もそうではないか。つまり天も世も春により、朧に霞んでいるということだ。

 以上の読みが妥当なら、桜の開花は春の因果だ。天が曇り世が霞む春が来る。よって桜は咲いたはず。

 古今集の名歌、

深山には霰降るらしとやまなるまさきの葛色づきにけり
              (1077 よみ人知らず)

では、都の近景の紅葉から、視界の外の深山の霰を推しはかる。これも推測の景色を上句に持っている。

 式子内親王の歌の発想は、古今和歌集の歌に似ているだろう。その中で式子内親王の味付けとして目立つのは「いま」という瞬間的な切り取りだ。これで「薄曇り春に霞める」世の中の景色を「いま」見出した女の姿が浮かび上がる。天も地も朧に霞んでいる。その景色に見出した春らしさから、女は桜が咲いただろう「いま」に思い当たったのだ。

 古今集の歌が雄々しいとまでは言わない。だがそれと比べたとき。「いま」の瞬間を切り取った式子内親王の歌に繊細さを感じても、それほど的外れではないのではないだろうか。

ちょうど今、桜の最初の一片が
どこか遠くの山辺できっと、咲いたのでしょう
空は薄っすらと曇ります
そして春の到来に霞んでいる
この世の中のあれやこれやでありますよ


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