3月22日 先生の仕事と慈円の孤独な桜
長く休んでいる子に電話をかけた。
「元気かい」
「ええまあ」
「どうするか、こっから」
「いや行きますけど、普通に」
決してご機嫌に応えてくれたわけではない。でも「普通に」が心に残ってジンジンと暖かい。
後で母親にも電話をした。「普通に」を伝えると、意外そうに喜んでいた。時間が解決するものもあったのかもしれない。
陽だまりに置かれた椅子は身に熱を帯びて座られるのを待ってる
☆ ☆ ☆
今夜は慈円の桜。
散り散らず人もたづねぬふるさとの露けき花に春風ぞ吹く
(『新古今和歌集』 95)
何で濡れてるんだろう?
わからない。推しはかるしかない。
「散り散らず人もたづねぬ」と言っている。散ろうと散るまいと人が訪れない、寂しい地だ。
古い土地だ。人が訪れない上に古いのだから、過去の場所、忘れ去られた場所だろう。
花はきっと泣いている。いかに美しく咲いても、きっと忘れられたままである自分の身を嘆いている。だから濡れている。
その花に春風が吹く。この風は桜を落とす風か、それとも癒す風か。
風は花の天敵だけど、この風は「たづねぬ」人との対比で用意されている。してみると、孤独を癒す風だろう。『源氏物語』の「蓬生」で末摘花のもとを訪れた光源氏のように、と言ってしまうと、春風にえぐみが出るだろうか。
散ろうと、散るまいと
どちらにせよ、結局誰も尋ねに来やしない
荒れ果てた古い土地の
濡れそぼった哀れな花に
そっと春風が身を寄せる
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