《和歌日記》2021年1月5日
元気な兄たちを妻に任せ、僕は今日も末の娘と引きこもりだ。娘は熱も下がったが、様子を見るために待機した。
絵本を読み、歌を歌い、テレビを見て、昼寝もした。一昨日からそんな1日を繰り返している。もういい加減やることが無い。ぼーっとする。こういう感覚を「徒然(つれづれ)」という。そして徒然は「物思い」をもたらす。
夜になり、徒然に任せて娘と2人、「ナウシカ歌舞伎」を鑑賞した。娘は30分ほどで寝た。よく頑張った。
つれづれと ふるは涙の 雨なるを 春の物とや 人の見ゆらむ
(『千載和歌集』33 和泉式部)
退屈の 長さが涙を 雨にする 軽く春雨と 言ってくれるな
することが無い。退屈だ。
退屈を感じること自体が、かつてその時間を埋めていた恋人の不在を浮き上がらせる。「ふる」は「雨が降る」だが「世を経る」でもある。雨の情景に、恋人を失って心が止まってしまった時の長さを重ねている。雨の時間は泣き続けた時間でもあるのだ。
その雨を人は、春雨とばかり見る。だがそこに批判はあるまい。世の中がおかしいのではない、自分が世の中から浮いている。春を春として楽しむ人々への羨みもあるのかもしれない。
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