5月30日(日) 古今集の五月雨

五月雨に物思ひをればほととぎす夜深く鳴きていづち行くらん
                     (153 紀友則)

 『古今和歌集』の夏歌に載る五月雨の歌は二首だけだ。そのうちの一つが紀友則のこの歌。
 ここでの五月雨は物思いを誘発するものとして機能する。するとほととぎす到来。ほととぎすは新古今時代に「村雨の空」との繋がりを深くするけれど、雨自体とは『古今集』の時代から縁が深かった。 

 もう一首を歌ったのが、従兄弟の紀貫之。

五月雨の空もとどろにほととぎす何を憂しとか夜ただ鳴くらん
                      (160 紀貫之)

 こちらも雨とほととぎす。ただしこちらのほととぎすは絶叫(?)している。憂いを帯びているからって、空に轟くほど鳴かなくても良かろうに。

 友則の歌では人物が物思いをしている。その人をおいてほととぎすはどこかへ飛んでいく。人物にほととぎすをうらやむ心を読み取る解釈もあった。人とほととぎすの対比を経て、どこへも行けないその人の思いの輪郭が見えてくる。
 一方貫之の歌で憂えているのはほととぎす。とはいえほととぎすの絶叫に憂さを読み取るのは人だ。人自身の憂さがあればこそ、ほととぎすの声に憂いを感じ取るのだろう。人とほととぎすの重ねを経て、その人の思いの激しさが感じられてくる。

 友則歌と貫之歌。並べてみれば、雨夜に憂いを抱いてほととぎすの声に耳を傾ける平安人の姿が浮かび上がる。そのときほととぎすは、憂さに形を与える仕事をしていたようにも思える。

(153現代語訳)
五月雨が降る
降り込められ、物思いをしていると
ほととぎす
こんな夜深くに鳴いて、
これからどこへ行くのだろう。


(160現代語訳)
五月雨が降る
その空に轟くほどに
ほととぎす
何が嫌で、
こんな夜にただひたすらに鳴くのだろう。

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