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2月8日 吉本ばななに向き合いきれない僕と、私がオバサンになった二条院讃岐

 吉本ばななの小説はとても好きだ。読めば没入する。名言に心服することもある。

 でもふと、「吉本ばななかよ」って思う瞬間もある。

 だってばななだよ。自分をばななと名乗る人なんだよ。

 僕の隣にいる誰かが作家デビューするとして、その誰かはきっと、自分をばななと呼んだりしないと思う。

 まあつまりは、僕がその程度の存在なんだなって話だ。だから僕の周りには吉本ばななも雲谷斎もいやしないんだろう。

ばななとか名乗る友人がいたとしてそこから先が思いつかない

☆   ☆   ☆

 僕の心にはルサンチマンが巣食っている。啄木を引くまでもなく、そんなの誰にだってある。

 ならば800年前はどうか。貴族たちは、ルサンチマンを歌にはしなかったのか。『新古今和歌集』の雑部に取材してみた。

身の憂さを月やあらぬとながむれば昔ながらの影ぞもりくる
                   (1542 二条院讃岐)

  二句の「月やあらぬ」は在原業平の

月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして

から引いた句。

 業平歌の「おればっか…」感を引き出しつつ、業平歌では「月は変わって自分だけ昔のまま」だったのが、二条院讃岐の歌では「自分だけ変わって月は昔のまま」と、逆転させて詠んでいる。どちらにせよ孤独な自己が浮き彫りになるのは、対比する月が憧れの対象だから。変わろうが変わらなかろうが、月は美しい。

 貴族はルサンチマンの対象も雅。

 いやルサンチマンじゃねえかこれ。
 どちらかというと孤独感?でも「もりくる」わけで、月が慰め顔に寄り添ってくるようでもある。味わい深い。

すっかりオバサンになっちゃったアタシを振り返りながら
月もさては昔のままではないのかしらと
じっと眺めてみたわ、そしたら
嫌んなっちゃう、昔のまんまの綺麗なまんまの
ひかりが見えてくるんだもの

 昭和か平成前半に流行ったはすっぱキャラクターが降臨してしまった。飲んで書くからこうなる。

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