3月23日 僕の喧嘩と空を染める桜

 ドラえもんドンジャラにはゲームが50個用意してある。その8つ目をやったのかやっていないのかで長男(7歳)と喧嘩した。

 大人組は「やった」で一致しているのだけれど、証拠がないから水掛け論にしかならない。やがて長男の声がヒートアップしてくる。話を聞かずに絶叫する。その姿に「あ、これ自分の間違いに気が付いたけど後に引けなくなってるやつじゃないかな」なんて思ったりした。実際はわからない。

梢から雪の姿で舞う花の数を争う喧嘩をしたい

☆ ☆ ☆

 桜の満開宣言もあちこちから聞こえてきた。『新古今和歌集』をめくっていたら、こんな歌があった。

花の色にあまぎる霞立ちまよひ空さへにほふ山桜かな
                (103 権大納言長家)

 なんだか景気は良さそうだ。しかし桜を歌っているのに、桜を隠すはずの霞が「立ちまよ」っているのはなぜだろう。

 この霞、「花の色に」というからには通常の浅緑ではなさそうだ。
 漢詩の世界では、霞は夕日や朝焼けに照らし出されたり、桃の花の色が溶けだしたりして、紅色に染まる(※)。
 そういう発想に影響されたと思しき歌が、『古今和歌集』の次の歌だ。

春霞たなびく山の桜花うつろはむとや色かはりゆく(69 読み人知らず)

 古今集の歌の霞は、色が変わっていく。最初は咲き誇るように薄紅、やがて老境を象徴するような白。その白は落花を予感させる。美しいながらも花との別れを含む切ない歌だ。この歌が『古今和歌集』「春下」の一首目を飾る。

 長家の歌に戻ろう。この歌の霞みも「花の色に」染まっている。白もありうるが、四句の「にほふ」の派手派手しさを考えると薄紅の方がふさわしいように思う。
 その薄紅の霞は、古今集歌では「うつろはむ」、つまり色が変わっていくのに対して、長家歌は「立ちまよひ」。変色しないまま霞は空に漂っている。長家の意図は、流れる時間を止め、ただ眼前の美しさに没入しようとするものではなかっただろうか。

 長家の霞はまるで桜の薄紅を溶かしこんだような色を保って空に漂う。それはもはや桜の一部として、「空さへにほふ山桜」と囃されているのだ。

桜の花は、薄紅。その色のままに
霞は空一面、広がっている
霞は広がり、そして漂って
空までも美しく染め上げる
見事見事な、山桜


※漢詩の紅霞
 例えば李白の「金陵送張十一再遊東吳」では「春光白門柳 霞色赤城天」と描かれた。この霞は赤城山の天空に漂う紅色の霞だ。また韓愈の「桃源図」では「種桃處處惟開花 川原近遠蒸紅霞」とあって、桃の花の紅色が溶け出したように霞む景色が描かれる。


 


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