承認欲求

認められる。とは。

皆さんは認められたいですか。上司、部下、先輩、後輩、同期、好きな人、嫌いな人、家族etc. 

誰から認められたいですか。また、誰から褒められたいですか。

私は今大学四年生です。これまで20数年間、漠然と誰かに褒められたり、認められたりしたいなと思って生きてきました。実際に褒められたことはあり、褒められるとなんとなく嬉しいと思って生きてきました。でも、認められたことはありません。

正確には認められた。と完全に認識したことはありません。もしかするとこれまで関わってきたどこかの誰かに認められているかもしれません。ただ、それを私は知りません。

私が今回言いたいことはそういうことです。漠然と誰かに認められたい気がしているものの、認められると言う概念はとても漠然としたものであるということです。ある瞬間に誰かに認められても分かりません。

一方で、褒められるということは、実際に言葉で受け取ることができる点でその瞬間に認識することができます。もちろんその言葉を額面通り受け取るべきかと言う問題はありますがひとまずそれは置いておきます。

一般的に認められたいという欲求は承認欲求と言われています。

ここまで認められたい、承認欲求とは漠然とした概念だと説明してきましたが、実は私なりにその正体についての結論を持っています。

勿体ぶらずに結論、「承認欲求とは自己満足である。

簡単に言えば、承認欲求で誰かに認められたいと思いながらも結局認めるのは自分自身しかいないということです。なんとか分かりやすく説明したいので、現実で考えてみます。

私はサラリーマン。仕事ができず、普段から半人前だと怒られてばかりの上司になんとかして認められたい。その一心で必死にもがく日々。仕事はなかなか上手くいかなかったが、ある日顧客と最高の契約を結んで部に大きな利益をもたらした。

その日の仕事終わりに上司が一言。「お前はもう一人前だ。よく頑張ってきたな。」

ここでクエスチョン。私は認められましたか? 


どんな答えでしょうか。分からない。認められた気がする。認められたと言える。

私の答えは、分からないです。ただ認められた気がしなくもないし、別に認めるとハッキリ言われたわけでもない。

認めるとはっきり言われたところで、何を認めたのかも分からない。認めるって何。

文がグダグダになってきて申し訳ありません。結局言いたいのは、認められたかの判断は自身が決定する点で自己満足に過ぎないということです。ここまですれば認めてくれるかもしれないと言う基準を勝手に作って、勝手に達成して認められた気がしている。

誰から認められているかという点に関して、認めているのは実は自分自身であると言うことに気づかずに。


以上、長文失礼しました。自分自身を認められる人生を送りたい。


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