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小説 「あ、今年初の蝉の声」

今年もまた蝉が鳴きはじめた。空は青く、水たまりに反射した日差しが眩しい。それらを背景にして、夏を告げる蝉の声だ。



昔、蝉の鳴き声を聞いて泣いたことがある。
大好きだった先輩が部活を引退した春。それを通り過ぎてやってきた夏のことだった。

先輩がいない初めての夏の部活。そこで、その夏初めての蝉の声を聞いた。その瞬間に、去年の夏のことが一気に思い出されたのだ。

耐えきれないくらいの暑さの中で、汗だくになりながら一緒に練習をしてたときのこととか。暑さで顔を真っ赤にしながら、私を褒めてくれた先輩の笑顔とか。蝉の鳴き声はいつも、そんなワンシーンの背景であって、気にしたこともなかったのに。急にその、気にも止めなかったBGMが、私を夏の思い出の中に引き戻した。

先輩への恋しさとか、悲しさとか。そんなものは全部春風に乗せて吹き飛ばしたはずだった。なのにいろいろと思い出してしまった。懐かしさとか寂しさとか、そういう気持ちが溢れ出して、気付けば涙を流していた。
どうしても先輩に会いたくなった。


空には薄い青が張っていて、痛いくらいに透明だった。




そこから一年経って、また、夏。
先輩はもう学校を卒業して、自分も部活を引退していた。一人、自転車で帰路についていたときに、その夏初めての蝉の声を聞いた。

そのときに去年のことを思い出した。去年は蝉の声をきっかけに先輩のことを思い出して、それで泣いてしまったっけ、って。

そのことは思い出したけれど、あの時感じた先輩への恋しさとか、青い痛さは感じなかった。

それがショックで、また少し泣いた。
昔はあんなに好きだったのに、一年経ってその気持ちを忘れてしまったってことに気が付いたから。先輩はもう過去に薄れて、遠い人になってしまった。それはしょうがないことだとは頭では分かっていたけれど、こぼれた涙は止められなかった。


空が滲んだ橙色に染まっていて、切ないくらいにおぼろげだった。



そこから何度も夏を繰り返して、今年の、夏。
もう、昔感じた青い痛さも、橙色の切なさも、あまり思い出せない。そして、それが悲しいとは思わないくらいには、私は大人になってしまった。諦めることとか、しょうがないこととかを覚えてしまった

それでも私は、夏を思い出すことだけは忘れない。
蝉が一番に鳴く度に、私は私の中のすべての大切な夏を思い出そう。
ああ、今も蝉の声が遠くで……



空は深い藍色を宿していて、苦しいくらいに、そして愛おしいくらいに、鮮やかだ。







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