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小説 その雨を越えるには


荷物も服装もそのままで、帰ってきてすぐにソファーに倒れこんだ。
疲労は限界まで溜まっていて、体は鉛のように重い。

(駄目だ、一回寝ころんだら絶対に起きれなくなる)

そう予想していた通りに、一度重力に身を預けてしまうと、簡単には起き上がれそうになかった。髪型やシャツのシワを気にする余裕、そんなものなんて無い。

ザーーザーーー
ポツ……ポツ、ポツ

雨がアスファルトに打ち付けられる音と、雨粒が時折り窓をたたく音たちが辺りに満ちている。遠くで車が水飛沫をあげる音。排水溝を流れる水の音。骨と骨の間、細胞の隅々にまで、雨が、音が、とうとうと染み込んでいく。そして体はゆっくりと深いところに沈んでいこうとしている。水の音だけに囲まれて、たった一人だけの世界にどこまでも落ちていくようだった。


ザーーザザーーー

こういう日は過去に意識が飛ぶ。
降りしきる雨を、窓から祈るように見つめていた旅行前日の夜。傘で顔を隠して、最後まであいつの顔を見ないようにしていた卒業式の日。びしょ濡れになるのにも構わずに、ひとりで家路を歩いた夜のこと。
とめどなく滴る水滴を眺めながら、大人になるとは諦めというものを知ることなのかもしれない、そんな子供じみたことを延々と考えていた夜のこと。

思い出された記憶と感情はぐるぐると渦巻いて、骨の芯まで染み渡っていく。のどから出そびれた溜息と飲み込んだ涙の洪水。

ザーーーーザザーーーー

いろいろなものを吸って、溜め込んで、重くなってしまった体は、どんどん暗くて深いところに引き込まれていく。もう一生浮上することなんて無いんじゃないかと思えた。光は遠く小さく霞んでいく。


ザーーザーーザザーーーー
ポツ、ポツ……ポツ


ピー

そのとき雨の音に混じって、どこか遠くで笛の音が聞こえた気がした。
そして、そういえば自分は昔リコーダーを吹くのが上手だった、ということをふと思い出した。楽譜はぎりぎりト音記号なら読めるといったレベルで、歌も特別に下手でも上手でもなかった。でもリコーダーだけは、いつもは怖い音楽の先生が「上手ね」と淡く笑いかけてくれるくらいには得意だった。

ポツ、ポツ、ポツ
フツ、フツ……
ピー、ピー

リコーダーが得意だったなんて、この年ではまったく強みにはならない。そろばんとか書写とかならまだしも、リコーダーを吹く機会なんてそうそう、というかほとんどない。
けれど、不意に思い出したその特技の音は、ゆらゆらと底のほうで漂っていた心に一筋の風を呼び込んだ。


フツ、フツ、フツ、フツ
ピー、ピー
ピー!

「まって、ちがう!これ、うちの笛吹ケトルの音だ!」
慌ててぱっと体を起こすのと、お湯の沸騰を知らせていた音が止むのは同時だった。怪訝に思ってキッチンのほうを振り向くと、そこには弟の姿があった。

「起こしちゃったか、ごめん」
「あ、いや、それは別にいいけど。いつ帰ってきてた?」
「ん、さっき」
「そっか」

慣れた手つきで弟はコップの準備をしている。視線を落とすとかけた覚えのない毛布が目に入った。少し表情を緩ませて小さく息をついてから、ゆっくりと立ち上がってキッチンのほうに歩いて行った。

「寝ててよかったのに、疲れてたでしょ」
弟はてきぱきと作業しながら、こちらをちらとも見ないで言った。
「……いや、なんか意外と起きれたから」
「?ふーん、そっか」

弟の手元をひょいと覗き込んで問いかけた。
「何飲むの?」
「ん?コーヒー。あんたも飲むでしょ」
「えー?はは、ココアがよかったな」
「は?なんだよそれ、なら自分で作れ!」

むすっとした顔でコップを一つ片付けようとする弟を急いでなだめながら、何気なく外を見た。雨はいつの間にか小降りになっていた。


きっと小さなことでいいんだと思った。それはきっと、例えばふと思い出した大切な記憶とか、誰かからの何気ない優しさとか。そんなとりとめない小さな幸せとかで、雨は越えられる。
香ばしいコーヒーの香りが、柔らかな湯気と共にふわりと広がった。




おわり




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