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こんにちは。Kotaroです。 

人間は、苦痛を遠ざけて、快楽を好む。
誰でもそうだと思う。

辛いのはいやだ~ 
私もそう思う。 

それならば、みんな喜び、幸福を求めて生きているのに、
どうしてこんなに苦痛が多いのか? 

この秘密というか、根本が分からないと厳しい。

何度も失敗し、傷つくことになる。

今回は、人間は愛を求めていながら、
なぜ傷つくのか? この原理を考えてみる。

 特に若い人にこの内容を一緒に考えてほしい。

 これから誠実に人生を送り、
幸福な家庭を築いていきたい、
と考えている若い男女にぜひ考えてもらいたい。

  

愛って言葉は世界にあふれているよね。

言葉は同じ “愛” なのだけど、
愛には、方向性が異なる二つの愛がある。 

哲学では、アガペーの愛、エロスの愛とかいろいろあるのだけど、
ここではシンプルに話そう。

 

求める愛、奪う愛と、
与える愛、相手のために犠牲になる愛。

この二つの方向性の愛が、個々の人間の中で、
行ったり来たりしている。

人間は、ある時は自分が愛されたいという欲求が大きくなり、
求める愛が強くなる。

またある時は、自分のことを犠牲にしてでも与える愛を実践する。
(母親が子供を愛する時など)

求める愛だけで生きている人はほとんどいないと思うし、
逆に自己犠牲の与える愛だけで生きている人もほとんどいない。 

二つの愛が行ったり来たりしているのは、
誰にでも当てはまるものだろう。

 

さてここからが重要。

 “成長”

 ここでは、愛の成長を考える。

 簡単に言うと、
自己中心愛と自己犠牲愛を行ったり来たりするのだが、

愛の成長、愛を成熟させるには、
自己中心愛を減らし、自己犠牲愛を増やす。

 自分のことは犠牲にしても、相手のために生きる。
この自己犠牲愛の部分が増えれば増えるほど、
愛が成熟していると言える。 

愛が成熟すれば、
自己犠牲しているようでも、
自分の “精神的幸福感” が増えるのだ。 

この逆説が面白い。

愛の成長、成熟の度合いが、
人間性の成長に通じる。 

愛の成熟の度合いに応じて、
幸福感が増える。 

このように、愛の成熟のサイクルが、
幸福感の増大に連結している。 

つまり、幸福になるためには、
自己中心愛を減らし、
自己犠牲愛を増やす。 

自己犠牲愛と聞くと、
何か不自由なもの、
何か抑圧的なものを感じるが、
実はそうではない。 

自己を抑圧しているようで、
精神的自由があるとも言える。

精神的自由は、精神的幸福感であり、
精神的充足感だ。 

相手を愛しているがゆえに、
自己犠牲的に愛することで、
相手が喜んでいる結果、
自分も幸福になる。 

これら二つの方向性の愛は、
表面上は同じものに見える。

違いは、心の奥にある動機の世界。

一見すると見分けがつかない。

 少なくともこの愛はどちらの愛なのか、
常に自問自答する必要がある。 

相手や周囲に要求する以前に、
まず自問自答しなければならない。 

まず自分が誠実であり、
真実の愛に近づいていなければならない。 

相手への要求はその後である。

 

この愛の成熟のプロセスは、
書くのは簡単だが、
実際、本当に愛せるかは別もの。 

本当に愛しているのか、
簡単ではないと思う。 

私個人の経験から言っても、
愛しているという実感を持てるまで、
相当な時間がかかったと思う。 

愛の成長は、現在進行形である。

愛の成長のプロセスは、誰でも人間であれば、
時間がかかるのは当然のこと。 

自分が生まれて赤ちゃんの時は、
母親から100%与えられなければ、
生きていくことができなかった。 

人間は最初、100%与えられる存在として出発している。

少年期から青年期、壮年期になり老年を迎えるが、
この人生全体のプロセスを通じて、
いかに愛の成長を遂げることができるのかが問われる。 

少し立ち止まり、自問自答してみよう。
愛の成長の軌道に立っている自分なのか。 

自己中心愛の方向なのか、
自己犠牲愛の方向なのか。
 

今日も自問自答する。 

愛の生活は楽しいよ。

橘孝太郎

 

 

 

 

 

 

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