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1章 中小企業の活路は海外にあり―日吉屋メソッドができるまで― 01日吉屋の沿革

日吉屋の沿革

日吉屋が伝統工芸品を活かした新商品の開発に取り組み、細々ながら様々な国で販売するようになった理由をお話しするには、私がいかにして日吉屋の和傘に出会い、この仕事を継ぐことになったのかという事を(少し長くなるかもしれませんが、)お話しする必要があると思います。
何故かというと、会社経営において、事業が行き詰まる程の大きな問題がある時、商品の改良や営業方法の見直し等と言った枝葉の対策では十分では無く、もっと抜本的な改革、革新が必要な場合があります。

このような場合「身内」の社内だけでは、様々なしがらみや、過去の成功体験に対する否定への反発など、様々な要因で自律的な変革が難しい場合があります。というか、このような状態に陥っている会社では、そもそも自律的な立て直しは不可能なのではないかと感じます。(もし出来るならとっくに立て直っているでしょう)

後に私が後を継ぐことになる日吉屋も、江戸時代後期創業から二代目の時代には、それまで長屋の貸家住まいだったところから、自分で土地建物(工房)を持つようになり、支店も構え、職人も4~5十人抱えるようになったと、しばらく前に100歳で亡くなった三代目の妻(私の妻の祖母)の生前に何回も聞いておりました。今では信じ難い事ですが、昔は和傘が日常生活品として使われていた事や、残されている古い写真や資料を見たり、これらの話を聞く限り本当だったのではないかと思います。

与三次郎

名刺

            (二代目 与三次郎)

しかし、戦後になり、日本が高度経済成長の時代に入った三代目の後半生には和傘は既に衰退が明らかで、四代目の時代になると、バブル時代は一時盛り返した事もあったようですが、その後は完全に破綻状態に転落し、私が日吉屋と出会った時は日々借金が増え、もういつ店を閉めるかという状況でした。もちろん三代目、四代目共に、それなりに状態を打開したとは思います。戦前戦後と和傘が廃れるに伴い、洋傘の小売も手掛けるようになったり、洋傘も安価大量生産の時代に入った後は、和雑貨を取り扱う等、その時々で営業内容は変化して来たようです。しかし、いずれも明瞭な意思で変化したというより、ただ時代に流されて来た結果、偶然残っていたというのが事実だったような気がします。

伊三郎

           (三代目 伊三郎)

日吉屋が存続できた理由

日吉屋京都市内で唯一の京和傘の工房として生き残れたのは、店の立地場所が京都市上京区の堀川寺之内という、茶道関連の施設が多い場所であった事、お近くに表千家・裏千家という茶道の御家元がおられ、茶道用の「野点傘」のご注文を頂いていた事、茶人が多く行き交う為、番傘、蛇の目傘などの需要があった事などが原因と思われます。日吉屋が江戸時代に五条河原町の長屋で創業し、現在の地に移って来たのは二代目の明治期の時代ですが、なぜこの場所に転居して来たのか明確には分かりません。しかし、現在も和傘の天日干しでお世話になっている宝鏡寺というお寺の境内で、傘を干させて頂こうと考えたと聞いております。多分当時のお寺の境内は公共の場所という意識が強かったのではないかと思います。和傘づくりには、完成した傘に油をひいて天日で干す必要がある為、広い場所を必要としていたのは間違いないと思います。(創業の地も本覚寺というお寺の境内の長屋で、境内で天日干しをしていたのだと思われます。)

生前の祖母ときわ(大正生まれ。三代目伊三郎の妻)の話によると、二代目の代が最盛期で、この場所は西陣という着物の「西陣織」で有名な場所で、多くの織物工場があり、非常に賑わっていたようです。多くの工場や会社が、「貸傘」として屋号の入った和傘を何本も揃えて置いていたようで、月に1回の集金の時には、請求書手に担当職人が東西に分かれて集金に行ったら丸一日かかる程だったと話していましたので、非常に繁盛していたようです。少し離れた大宮通りという場所に支店も出していたそうです。私の妻の時代になっても、子供の頃は毎朝近所の織物工場の織機の音で目が覚め、うるさくて寝られなかったと言っていましたので、当時の賑わいが想像されます。(現在では織物の音は、ほぼ聞こえなくなってしまいましたが、、、)日吉屋が現在の場所に移ってきたのは、二代目が、この西陣織の賑わいの中で商売しようと考えたからではないかと想像します。そしてそれは一定の成功を納めたようです。

祖母によると祖母の家は元は士族だったそうで、実家も現在の日吉屋から歩いて10分かからないぐらいの場所にあります。祖母の親が、明治維新で武家の世は終わり、今後は商品の世の中だと思ったらしく、商売人の家に嫁げば安心との事で、日吉屋の三代目伊三郎に嫁がせたとの事でした。(当初は女中さんが2人もいたそうです。)ただし、和傘屋が良かったのも最初だけで、時代が昭和に入ると洋傘の普及も始まり、戦後は生活王式が急激に西洋化し、転がり落ちる様に衰退しました。多分この時にもっと商才があれば、洋傘屋に転じるか、他の業種に鞍替えするかしていたのかもしれませんが、三代目の伊三郎は戦後は仕事に精を出さず、趣味の車・バイクいじりが高じて自分で整備しながら日本一周に出かけたり、家業をあまり顧みなかったが為に、祖母が他に仕事をしらず、細々和傘作りを続けるしか仕方なく、結果的に和傘屋として残ってしまったのだと思います。三代目の時代に日吉屋は衰退を続け、家族以外の従業員は一人もいなくなり、支店も閉鎖、四代目も離婚を機に実家の日吉屋に戻り、当初は他の仕事をしていましたが、バブル景気が弾ける直前頃から、家業を手伝うようになったようです。バブル期には高額な大型の野点傘や、その当時取り扱いをはじめた高級ブランド洋傘が飛ぶように売れた時代も一瞬あったようですが、その後は低迷し、和雑貨販売も取り入れましたが衰退に歯止めがかからず、和傘も本当に細々と続けるだけになってしまったようです。こうして考えると二代目の成功と、四代目のバブル期の蜃気楼のような成功があったが為に、転換すべき時期を見失い、倒産寸前まで追い詰められたのだと思います。

日吉屋の古写真

以下順に(日吉屋本店、大宮店、伊三郎、ときわ、当時の傘作り)

本店

大宮店

伊三郎2

ときわ

職人

余談ですが、、、

おまけ(伊三郎 バイク・車好きで自分で改造、整備して仲間と共に全国一周していたそうです、、、、)

バイク好き伊三郎

バイク

伊三郎3

愛車


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