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あなたに読んでもらえないのなら本当は書きたくなんてないけれども

「タツヒコ、それは何をしているの?」

 私が工房で作業しているとムスヒが尋ねてきた。

「これか?」

 私が左手で持っている木型を顔の高さまで持ち上げるとムスヒは頷いた。

「これは吊り込みという作業だ」

「吊り込み?」

「革を木型に合わせて釘を打っている。アッパーを作る作業だ」

「アッパーってこれ?」

 なぜかムスヒはシャドーボクシングをしている。

「そのアッパーではない」

 ひとつ、ため息を吐いた。

「私の好きなアスリートが言っていた」

「なんて?」

 ムスヒは会話が上手だ。質問を入れる間が上手い。

「神の助けを得たければ、神の助けもいらないほど努力せよ。そのようなことを言っていた」

「へえー、深い」

「そのアスリートは野球選手だが、空振りで金を取れるのはこの国の野球史上二人しかいないと思っている」

「何それ」

 ムスヒは私の話には興味なさそうに工房の中を見渡している。

「そう言えば、タツヒコの師匠さんは? 今日もいないの?」

「ああ」

 頷くと話を続けた。

「今は隣町で臨時でオーダー会をやっている」

「オーダー会?」

「注文会だな。靴のサンプルを見せて、作って欲しいという客を募っている」

「なるほど」

 ムスヒの目の色が変わった。

「じゃあこの工房にはタツヒコと私だけってこと?」

 ムスヒの問いに頷く。

「ああ、そうなるな」

「じゃあさ」

 ムスヒがいたずらな笑みを見せる。

「やっちゃおうよ」

「馬鹿なことを言うな」

「えー、なんで?」

 ムスヒがむくれて抗議する。それをしたいのはこちらの方だ。

「でもさ、革っていい匂いがするのね」

「ああ、革は元は生き物だからな」

 私は吊り込みの作業に戻り、ムスヒも黙ってそれを見つめる。

「ねえ」

「どうした?」

 ずっと黙っていたムスヒが口を開いた。

「タツヒコはどうして靴を作ろうと思ったの?」

 その問いにたっぷり十秒は考え込んだ。

「そうだな。どうしてか。もし自分で大好きな物を作ることが出来たら、そんなに素晴らしいことはないと思った。だから私は、他の誰かの作る靴も好きだ」

「へえー、かっこいいじゃん」

「商業に走って、中には賛同できない理念の上でいや、理念のない靴職人もいるのかも知れない。でも私はそういう人を断罪したりしたくはない」

 ムスヒの返事はない。

「私もその人の立場なら商業に走るかも知れない。商売が上手く行ったせいで従業員を守るために仕方なくその靴を作っているのかも知れない。そういうことを考えると責められない」

 ムスヒが私の隣に来た。木製の丸イスを運んできて、私と同じように座ったのだ。

「タツヒコは優しいのね」

「そうだろうか」

「うん、優しい」

「そうか」

 やはりムスヒは私が何か言いたいことのある時には口をつぐむ。これを馬が合うというのかも知れない。

「悪者のいない世界がいいじゃないか」

「え?」

「悪者を吊し上げる人も、また悪者だ。それに今日正しいことが明日悪になることもある。歴史が証明している」

「タツヒコは吊り上げてるけどね」

「上手く拾ったな」

「まあね」

 得意げなムスヒの表情に、私まで頬が緩んだ。

「人には、物事には理由がある。道理がある。靴は木型を正確に作らなければいい物にはならない。人の行動にも理由も道理も存在する。それを互いが汲み取り、相手を思いやれればいいと私は思う」

「アンタはいつもそんなことを考えているの?」

 ムスヒの言葉に頷く。

「ああ、こんなことばかりを考えている。あとお前のことだ」

 ムスヒが私の肩を叩いた。

「本人の前で惚気るな!」

「惚気てなどいない。本当のことを言ったまでだ」

「本当のことでも言っていいことと悪いことがあんのよ!」

 おかしなことを言う。そう思ってじっとムスヒの目を見た。

「この場合は? 言ってはいけないことなのか?」

「ううん、言っていい」

 ムスヒが私に静かにキスをした。このくらいなら師匠もお目こぼしくださるだろうと、目を閉じた。

Fin

おはようございます、こんにちは、こんばんは。 あなたの逢坂です。 あなたのお気持ち、ありがたく頂戴いたします(#^.^#)