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忘れてなどいない、今も勇気を

「タツヒコ君、これは?」

「私の作った靴だ」

「ありがとう、嬉しい」

 目が覚めた。夢を見ていたようだ。懐かしい夢だった気がする。だが目を覚ましてすっかり内容を忘れてしまった。

 窓の外はもう明るく、私は洗面所に向かった。

 歯ブラシのブラシ部分を湿らせ、チューブから歯磨き粉を取って口へ運んだ。

 歯磨きを終えると、一度キッチンに行って水を一杯飲んでから再び洗面所に戻った。ヒゲを剃り、顔を湯で洗ってタオルで拭った。

 鏡に映るのは私だ。わずか二十三歳で三十二歳妻子持ちと言われた私は、歳を重ねてもほとんど当時と見た目が変わらない。要するにようやく年相応になってきたのだと思う。

 デニムに脚を通し、ベルトを締める。白い長袖のTシャツの上から厚手のアイボリーのセーターを被った。

 オイルドの革のジャケットを羽織ってマフラーを巻くと家を出た。

 工房に着くとジャケットを脱いで作業を始めた。チャネル起こしと呼ばれる、いわゆる木型を作る作業だ。

 先日ムスヒの足形をとらせてもらった。靴を贈るのは本意ではないが、ムスヒが欲しがるのだから仕方がない。

 しばらく作業していると師匠が工房に入ってきた。

「おはようございます」

 作業の手を止め、立ち上がって頭を下げた。

「いいよ、そんなにかしこまるな」

 手をひらひらと振った師匠はダウンジャケットを脱いで、ハンガーにかけた。

「今日は一階、開けるからな」

「はい」

 師匠の言葉に頷く。一階というのはショップになっていて、作業があまり立て込んでいない時期は店を開けて販売も行う。師匠が私にそれを伝えたということは私に店頭に立て、という意味だ。

 時刻が十一時になった頃、一階の店を開けた。自分たちの作った靴を陳列して、客が来るのを待つ。先月師匠が注文会を隣町でやっていたので、客入りはあるだろうと思っていた。

 しかし予想に反して店には誰も来ず、師匠も工房のある二階から降りて来ないので誰とも話をすることもなく時間が過ぎた。

 手持無沙汰なので、馬毛のブラシをカウンターから取り出して陳列している靴を一足一足、埃を落とす作業を始めた。

 しばらくそうしていると客が一人店に入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 穏やかなトーンの声で言った。客は頭を下げて、店内を見渡す。身なりのキレイな女性だ。長い髪に淡い茶色のベルトの着いたコート。

 女性客の視線はヨーロッパの貴族の靴をルーツに持つボタンブーツのところで止まった。まだ声をかけてはいけない。そう思って靴の埃落としを続けた。

 女性の動きが止まり、ボタンブーツを手に取ったところで声をかけた。

「サイズなどお伺いいたしますので」

「ありがとう」

 女性はそう言って笑うとブーツを棚に戻した。

「これ、履いてみてもいいですか?」

「ぜひ。サイズは?」

 彼女の足のサイズは女性にしては大きく、私は在庫を探すために一度ストックに入った。靴の入った箱を抱えて出て来ると、女性はすでに自分の履いてきたロングブーツを脱いでいた。

「お待たせいたしました」

「いいえ」

 ブーツのボタンを外して履きやすい状態を作って、女性の目の前に置いた。女性はブーツを履き、サイズが合っていることを確かめるために少し店内を歩いた。二度、三度頷いたので気に入っていることが分かった。

「これ、店員さんも履いているんですね」

 女性の試着したブーツはコニャックという色、深い茶色だが私が履いているのは黒のボタンブーツだった。

「ええ、私も履いています。脱ぎ履きもさほど面倒ではありません」

「じゃ、これに決めた」

 女性はそう言うと肘掛も腰掛もないソファに腰を下ろして、ブーツを脱いだ。

 しかし、左足をブーツから抜こうとした時に女性が痛い! と声を上げた。私は驚いて駆け寄った。すると彼女の左のふくらはぎには虫刺されあとがあった。そこと擦れてしまったらしい。

「すみません、驚かせて。これのせいで夏はなかなかワンピースが着られないの」

 女性は恥ずかしそうに目を伏せる。

「別にそんなことは気にしないですよ。それにそれを気にするような男は気にしなくていい」

「ふふ、店員さんおもしろいのね」

 笑い終えた彼女が言った。

「これ、いただきます」

「ありがとうございます」

 頭を下げて、商品の包装に移った。

 その女性が誰かに似ているとずっと思っていた。今朝の夢の、つまり私が靴を贈った女性と似ていたのだとこの日、眠る前に気が付いた。

Fin

おはようございます、こんにちは、こんばんは。 あなたの逢坂です。 あなたのお気持ち、ありがたく頂戴いたします(#^.^#)